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 一乃の想像していた物語と、現実が違うことに気づいたのは、春が過ぎ、雨が紫陽花の葉を濡らすようになった頃のことだった。  一週間ほど晴れ間はなく、どんよりとした鈍色の雲が空にひしめいている。  一乃はいつものように働く気力が起きず、茶の間でぼんやりとしていた。平日の昼間、夫は大学に出て、家政婦は隣町まで使いに出ている。  がらんとした家の中で、足を投げ出して茶を啜る。  少し開いた襖から大きな目がのぞいていることに気づいたのは、急須に湯を足そうと立ち上がった時のことだった。 「っ、ひい……!」  薄暗い廊下に、浮かび上がる目。  それがこの世のものではないと思い込んだ一乃は、恐怖で胃のあたりが押しつぶされるような感覚を覚えた。  助けを呼ばなければ。 「……きゃ……」 「待って! 私です! 奥様!」  勢いよく襖を開けて入ってきたのは、夫と連れ立って学校に行ったはずの稲城だった。  金切り声を上げる直前だった一乃の口を手のひらで塞ぎ、もう一方の手を唇の前に立て、静かにするよう促す。 「……! ……!?」 「落ち着いてください!」 「っ……、稲城くん。用があるなら声ぐらいかけてください。怖いじゃない」 「……申し訳ありません……その、奥様に相談したいことがあって……」  稲城は一乃の向かいに座布団を持ってきて座った。両ひざに手をつき、真剣な顔でこちらを見てくる。 「その……私……いつか、犯罪者になってしまうかもしれません……」  突然そう告白されて、一乃は面喰らった。驚く一乃をよそに、稲城は続ける。 「私、今みたいに……身内以外の人を覗くのが趣味で。こっちに来てからは、もちろん、我慢していたんですけど……、日に日に好奇心が強くなっていって……。このままじゃ、道子さんや、お隣さんを覗くようになってしまうかもしれない。そんなことしたら、捕まってしまいます。だから……」 「だから……?」 「奥様に覗きを働くことを、お許しいただきたいんです。このままじゃ、私、本当に犯罪者になってしまう……! そんなことをして、先生や、故郷に泥を塗りたくないんです……」  嗚咽を漏らし、座したまま、稲城は深々と頭を下げた。 「お願いします」  最初こそ戸惑った一乃だったが、だんだん稲城が可哀そうに思えてきた。  故郷や大学の期待を背に、研究に邁進している青年は、人に言えないような欲望を抱えていた。彼だって人間である。日々募る心的疲労を、どこかで発散する術が必要だ。  稲城の覗き行為を許可するにあたって、一乃はいくつか条件を出した。  一乃が風呂や手洗い、寝室にいるときは覗かないこと。  一乃が稲城に声をかけたら、即座に覗きはやめて普通に戻ること。  大抵着替えは寝室で行うので、稲城が見られるのは、化粧をする姿や、家事をしている姿だけ、ということになる。 「守れなかったら、田舎に送り返しますからね」 「ありがとうございます! あの、このこと、先生には……」 「言いませんよ」  夫に隠し事、というのは多少後ろめたいが、夫に余計な心配もかけたくなかった。 「私はいつも通りにしているから……決まりは守って、好きにしてくださいな」  雨が窓を打つ音が聞こえてきた。雨が降ってきたようだ。傘を持っていない家政婦を迎えに行くよう稲城に頼み、彼を玄関から見送る。  一乃は稲城を一瞥した。硝子の奥から覗いた瞳は、獣のようにぎらついているように見えた。見間違いかと思って目を瞬かせ、もう一度見ると、そこにはいつもの顔があった。 「じゃあ、行ってきます」 「あの子、駅で立ち往生していると思うから、急いでね」 「はい」  雨が洋傘を打つ音が、だんだんと遠くなっていく。  一生晴れることのないような、鉛のような雲が、東京の空に立ち込めている。
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