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 襖が開く気配がした。  一乃はその気配に気づきながらも、襖のほうには目を遣らず、身支度を続ける。  隣の部屋ーー寝室では、夫が眠っている。畳の上に化粧台と文机が置いてあるだけの簡素なこの部屋は、夫が一乃のために設えてくれた部屋だった。  寝間着から着物に着替え、結い上げた髪を直し、紅をさす。  襟元を正して、朝食の支度をしようと立ち上がると、すでに先ほどの気配は消えていた。  一乃の行動は、少し前から、とある男に見られている。  朝の身支度。食事の支度。針仕事。近所の奥さんとの雑談、等々。  それが誰の仕業なのかも、分かりきっていた。  一乃の夫は、とある大学の教授である。  彼が取りまとめる研究室の学生の一人に、稲城という男がいた。  稲城の両親は遠い田舎で農業を営んでいる。早くから勉強に目覚めた息子のために、彼を東京に出してやった。  しかし、彼の両親は学費を払うので精いっぱいで、下宿費はおろか、教科書代すら出してやれないような状況だった。  そんな稲城を可哀そうに思い、下宿先として申し出たのが、一乃の夫である。  彼はこの研究室で一番期待されているんだ。  そう言って、初めて稲城を連れてきたときのことは、今でも鮮明に覚えている。  重たい癖っ毛が眉まで隠し、不審な雰囲気を醸し出していた。なんだか不格好な眼鏡をかけ、無表情で夫の隣に突っ立っている。 「あ、あの、今日から、お世話になります。稲城といいます」  深々と頭を下げると、おそらく寸法が合っていないであろう彼の眼鏡が、顔から滑り落ちて玄関の砂利の上に落ちた。 「あらあら。取って食ったりしませんから、落ち着いてくださいな」  眼鏡を拾おうとした男より早く、膝を折ってしゃがみ、眼鏡を拾う。そのまま立ち上がり、持ち主の手のひらの上に載せてやった。 「あ……ありがとうございます」  ばち、と火花が散ったような感覚だった。  癖毛の奥の双眸が、一乃を捉えて、からめとった。分厚い硝子に阻まれて分からなかったが、身なりをちゃんとすれば、かなりの色男になるのではないか。  一乃のその予想を裏付けるかのように、家政婦の一人が熱のこもった溜息をつく。  彼は慌てて眼鏡を付け、言葉をつづけた。 「私、青葉教授には本当に感謝しております。勉強をできるように配慮していただいて……。私のことは召使だと思って、なんでも言ってください。荷物持ち、薪割り、なんだってやります」 「頼もしいだろう、一乃。彼はうちの研究室でも、一二を争うくらいの秀才なんだよ」 「それじゃあさっそく……来年の分の薪は、まだ割ってなかったわ。そこのお手伝いさんに聞いて、必要な量を割っておいて」  その日からというもの、下宿人の稲城は本当に召使のように、よく働いた。  時折夫と連れ立って夜遅くまで飲み歩いたり、試験の前は必死の形相で部屋にこもって勉強していたり、学生らしい生活も楽しんでいるようだった。  夫は稲城をたいそう気に入り、二年に進級するころには、彼を研究の道に進ませるつもりでほかの教授に紹介したり、学会に連れて行ったりしていた。  無表情ではあるが薄情なわけではない彼は、家政婦や近所のご家族からも気に入られているらしかった。肝心の一乃も、夫の弟子として連れ歩くのに恥ずかしくないよう、髪を整えさせたり、きちんとした背広を買い与えていたりしていた。 「その眼鏡は、なんとかならないもんかねえ」  そうは言うものの、眼鏡はそうそう買い替えられない。まして、彼の眼鏡のレンズは、あまりにも近眼すぎる人間のための特注なのだという。  これさえなければ、髪をきちんと撫で付け、洋服に身を包んだ色男になるのに、と一乃は残念に思う。 「一乃さんもなんだかんだ言って、稲城さんがお気に入りですね」 「こんなに熱心に働いてくれるんだもの。お給金を渡さないのが、申し訳ないくらい」 「奥様においしいものを食べさせてもらっているんですから、当然です。恩の分、体で返します」 「体だって、一乃さん!」 「あ、いや! 心を込めて働きます、という意味です!」  きゃあきゃあと喜ぶ家政婦と、かすかに頬を赤らめて初心な反応を返す稲城を見て、一乃の頬も思わず綻んだ。  夫は稲城のために、見合いの準備をしていると言っている。愛弟子の仲人になる気でいるのだ。これからも家族ぐるみでの付き合いが続く。そういう存在ができたことは、一乃にとっても嬉しい出来事だった。
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