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「ただいまー」
帰宅したが、誰の声も帰っては来ない。
それどころか、玄関の明かりすら灯ってはいない。
時刻はもう夕方の6時になろうかと云う所。
今は六月、日はまだ高い。
だが、それでも此処は木々の生い茂る、山深い集落の中の一軒家なのだ。
しかも、隣家まではそれぞれ数十メートルはある。
もうこの時間には、普通なら明かりの一つも灯っていなければおかしい。
そうでなければ、木々の生い茂る森の中などは真っ暗である。
重ねて言うが、ここは”ど田舎”。
街灯なんか、街の中の様に点在している事はまずあり得ない。
人も碌に居ないという事は、税収自体が少ない。
少ない税収を、周囲の殆どを占める森林の街灯に充てる前に、高齢者ばかりの町では他にお金を掛けなきゃならない事が沢山ある。
以前、あまりに街灯が少ないので役場の人に要望をちらりと伝えてみた所・・・食い気味にそんな答えが返って来た。
だから単純に言えば、解決策は自身の家に明かりを灯す事。
それが街灯代わりになるのだ。
・・・てなわけで、我が家の前は今は真っ暗だ(表の民宿側はほんのり明るいが)。
だが、我が家ではこれが日常、当たり前の光景なのだ。
それもその筈、叔母は別の場所で今、夕食作りの真っ最中なのだ。
僕たちの、ではない。
民宿に宿泊するお客さんの、だ。
せいぜい10名ほどしか泊まれない小さな民宿なのだが、叔母一人で切り盛りするのだから、それでも毎日命一杯なのだ。
今日は宿泊客が多いらしく、叔母は朝から休みなく忙しく働いていた。
そんな叔母に、我儘など言える筈は無い。
だからこの離れの家の夕食と洗濯、掃除は僕の担当だ。
僕は慣れた様子で家の鍵を開け、玄関をくぐると明かりを灯した。
「ああ~ん・・あ・・ぶぶぅ」
まだ寝惚けている向日葵が、空腹で少しだげぐずりだした。
「待って、今ミルク用意するから」
僕がキッチンに向かうと、冷蔵庫に一本だけミルクが作られていた。
「柊子さん、感謝!」
僕は急いで哺乳瓶をポットのお湯で温めた。
その間に、向日葵を抱きかかえたままで、洗濯物をかき集めて洗濯機へ。
丁度ミルクも温まったところで、向日葵を椅子に座らせ、ミルクを自分で飲んでもらう。
すかさず、テレビでNHKの子供番組を流す。
これならミルクを飲み終えても、テレビに夢中になっている間だけは大人しくしていてもらえるからだ。
それまで、支払った受信料の元を取ったと感じた事は一度も無かったが、向日葵を産んでからは、凄まじい勢いで元を回収させて貰っている。
(子育てに役立つ情報満載だもんな、NHK。本当、様々だよな)
その間に、僕は冷蔵庫とにらめっこだ。
(・・昨日の民宿の残りは、空揚げ三個と茶碗蒸し一個、あとはキュウリの酢の物・・・あ、ご近所さんから貰ったシイタケとほうれん草があった。あとは葱と鯖の煮付け缶詰、焼き鳥何本か貰ってたっけ。・・ラッキー、ちくわ発見!)
料理の献立を考える為に、風呂掃除をしに行く。
おむつ代節約のために、家では布おむつにしている為、風呂掃除の時はまず風呂を洗う前に、向日葵のおむつを洗うのだ。
最初は臭いし、汚いし・・・。
我が子のウンチとはいえ、他人の排泄物を触るなんて絶対にあり得なかった。
だが、母になるとはこういう事なのだろう。
今では、我が子が健康にすくすく育っている証として、積極的におむつチェックしている。
「うわ、ウンチべったりじゃん!・・もぉ~・・可愛い奴め!」
鼻歌を歌いながら、いつもの様におむつの山を片付けていく。
その鼻歌で気持ちよく歌っているのは・・・恥ずかしながら、一曲だけ出して貰ったマイソングだ。
以前子役で出演したドラマが大ヒットし、劇中で急遽歌う事となった曲だった。
(それでもさ、そこそこのヒットだったんだけどね、この曲)
CDが三十万枚ほど売れて、ダウンロードもまあまあして貰って、その時印税が幾らか入ったのだ。
僕の所属していた事務所はそんなに大きくは無かったから、あんな事でも事務所が大喜びしてくれたのを今でも覚えている。
(あの時の社長、舞い上がってたよな~)
そうこうしている間に洗濯物も上がり、献立も決まった。
風呂を沸かしながら布団を敷き、チャチャっと料理も済ませる。
お弁当には、ほうれん草とちくわの卵とじ、空揚げが一個ずつ。
ご飯は、焼き鳥を串から外して軽く刻み、葱と椎茸を刻んだ物をめんつゆで軽く和え、耐熱容器に入れて軽くチンしたものをご飯に和えれば、簡単かしわ飯の出来上がり。
それをお茶碗と弁当箱に分けて盛り付ける。
弁当には仕上げに、柊子さん特製の糠漬けをぬか床から少しだけ失敬して、それを盛り付けて完成。
茶碗蒸しは、かしわ飯の残りの刻み葱と椎茸スライスでお吸い物に。
鯖缶は、庭で栽培している葱を刻んで、軽く崩したお豆腐の上に鯖缶(汁ごと)、その上におろしショウガとごま油、仕上げに小口切りにした葱を散らしてサラダ風に。
きゅうりの酢の物は、皆で箸を出せるように小ぶりの鉢に盛り付けて真ん中に。
時計を見たら・・・もう8時になっていた。
外も随分薄暗くなってきた。
僕は朝が弱い為、今の内から弁当を三つ作っておく。
僕の明日のお弁当と、親葉と柊子さんの分だ。
それを、柊子さんには食べる時にレンジでチンしてもらう。
親葉は職員室にレンジがあるから、それでチンして食べているのだろう(と推測)。
僕は、出かける前にチンして持って行く事が大半だ。
(学校にもレンジは有るんだけど・・・順番待ちとか面倒臭いんだよな)
そろそろ、向日葵がぐずりだした。
「ンま、ンま・・うぅ~・・・」
「ゴメン、もうナイターに切り替わっちゃってたね」
テレビを素早く消す。
さっきも話したが、向日葵はもう離乳食が食べられる。
だから、それが欲しくてぐずっているのだ。
(ゴメンね、さっきからいい匂いしてたもんね。お腹空くよね・・)
僕は急いで、テーブルにお茶(カフェインレスの物)と離乳食を用意する。
「は~い、向日葵。ごはん作っておいたよ~食べようか~」
舌で潰せる位軟らかく煮たニンジンなどを予め休日に数種類冷凍庫に作っておき、平日の夕食などにはそれをメインに使って手早く離乳食を完成させていた。
おさじを持たせ、自分で食べるように促しつつ、僕が一口ずつご飯を口に運ぶ。
「あ~ん・・・おいしいかなぁ?」
「ンま、ンま!」
向日葵が手を叩いて喜んでくれた。
僕には、それが嬉しくて仕方がない。
向日葵を産む前までは、僕はいつもマネジャー代わりの母と二人だけだった。
父は一年の殆どを海外を飛び回って過ごしていたから、兄弟のいない僕はいつも孤独だった。
けれど、今は向日葵を産んで、孤独じゃ無くなった。
あんな辛い事の後の結果だけれど、僕はとても満足していた。
満腹になって、うたた寝を始めた向日葵を、急いで風呂に入れる。
二人で風呂から上がると、仕事を終えた柊子さんが晩の準備をしていてくれた。
「ああゴメン!向日葵を寝かしつけたら支度しようと思ってたんだ」
「いいのよ、手が空いた人がやればいいんだから」
柊子さんは、三角巾を外しながら、からからと明るく笑い飛ばしてくれた。
柊子さんは、僕の母の姉にあたる。
三年前に、ニュージャージーで高校教師をしていたご主人を事故で亡くし、現地で日本料理を教えながら、気楽な未亡人生活を楽しんでいたそうだが・・。
僕が、不慮の事故で妊娠して路頭に迷っていると聞きつけ、急遽ニュージャージーの家を引き払って故郷の奥浜名湖で民宿を開き、僕を受け入れてくれた。
僕の母も柊子さんもアルファ、もう50歳を超えた筈だが・・若々しくて元気いっぱいで、年齢を全く感じさせない。
容姿もとても綺麗で、「さぞかしモテたんだろうな」と感じずにはいられない。
親葉と同じ、少しだけ釣り目の大きな瞳、通った綺麗な鼻筋と鼻。
唇はやや小さく、輪郭は丸顔。
背は日本人にしては高く、170センチ近くは有るだろう。
引き締まった体に、やや大きめのバストが魅力的だ。
柊子さんは、長くて緩くウェーブの掛かった赤茶の髪を、いつもは首の後ろで軽くお団子にしていた。
(実際酔うと、若かりし頃の自慢話がすんごく出てくる)
「ば、ば」
向日葵は柊子さんが大好きだ。
僕が腕から降ろしてやると、柊子さんの元に這って行き、壁に手を付きながら上手に立ち上がった。
「うわ!この子自分で立ったよ!!」
「ほんと!今度柚子にも見せに行かないといけないわね。喜ぶわよ~」
「ば、ば、ああ~」
みんなの喜ぶ顔が嬉しかったのか、向日葵は自分で手を叩こうとして壁から手を離してしまった。
「あ!駄目、ひま・・」
瞬間、向日葵は膝から崩れ落ち、頭を壁にぶつけてしまった。
「・・うわああああ~~~!」
堰を切ったように激しく泣き始めた向日葵を、柊子さんは優しく抱きかかえてあやしてくれた。
「痛かったねえ、おお、よちよち」
丁度そこに、のっそりと親葉がやって来た。
「・・・どうした、向日葵?」
その声を聞いて、柊子さんがあからさまに眉間にしわを寄せた。
「大した事ないわよ。あんたが昔、しょっちゅうやってた事よ」
「なんだそれ」
「それよりアンタ、14も離れた従兄の作ったご飯、毎晩たかりに来てんじゃないわよ。「働かざるもの食うべからず」よ」
「あのなあ・・・俺は毎日、ちゃんと働いてるっつーの!生活費もちゃんと入れてるだろうが。今日だって、お袋が向日葵の面倒見ねえから、俺が学校で預かってやったんだぞ」
「そんなのサービスみたいなもんじゃない。どうせそうでもなけりゃ、エロい週刊誌でも見て時間潰してただけでしょ」
「うっ・・・何故わかる」
「アンタの親何年やってると思ってんの。親なめんな」
「・・・・ハハハ・・」
この二人の日常会話は、いつもこんな感じだ。
・・ソーゼツだけど、チョットうらやましい気もする。
「仕方ねえだろ、あの小屋風呂は無いし、キッチン小せえし。洗濯機なんて、どこに置けばいいんだよ」
本当は親葉も、この民宿裏の離れに住む筈だった。
けれど、向日葵の夜泣きが余りにうるさいと、少し離れた所に建っている小屋の方に突然引っ越してしまったのだ。
それを柊子さんが面白くないと感じたらしく、以来二人は事あるごとに喧嘩をしていた。
「そっちが気に入って勝手に越してったのはあんたでしょ。洗濯機なら裏に二層式の奴があるでしょ、あれ使いなさいよ」
「使い方わかんねーし!」
「風呂だって、表にドラム缶の露天風呂があるじゃない。・・あれまだ使えるでしょ」
「冗談じゃねーよ、いつの時代だよ!しかもあれ、外からモロに丸見えだし、水は自分でバケツで汲まなきゃなんねえじゃねえか。ふざけんな」
・・・これがまた、全くその通りなのだ。
あの小屋(ログハウス)は、今は亡き僕たちの祖父が趣味で建てた物なのだ。
長年祖母と二人でやって来た民宿を、客足が遠のいた事を理由に5年程前にやめ、余った余暇で建て始めた物で、近所の自分の所有する山から木を伐採して持って来て、一から建てたと聞いている。
しかし素人が趣味で建築したものだから、ダメな所が相当ある。
まず、上下水道は無い。
沢の水を引っ張って来て、かろうじて手洗い位は出来るようにしてあるが、当然飲用には出来ない。
あと、隙間がヒドイ。
昔、リスが小屋の丸太の隙間から顔を覗かせていたのを何度も目撃していた。
夏になれば、昆虫や小動物が入り放題になる事だろう。
当然雨漏りもする。
(それはさすがに修理して直したそうだ)
炊事場は、外に設置するタイプの手洗いを置いただけ。
かろうじて、知り合いに頼んだ(らしい)電気の配線のみが生きていた。
だから、あそこに親葉が住みだした時には申し訳なくて、「うるさいのはこっちなんだから、僕たちが替わるよ」と声掛けした位だ。
それでも親葉はあそこが気に入ったのか、決して戻ろうとはしなかった。
「・・まあいい、風呂、借りるぜ」
「ちゃんと返せ」
「・・へいへい」
「ハハハ、行ってらっしゃい・・・」
こうして、僕たちの一日は過ぎてゆく。
柊子が風呂を終えて居間に戻ると、向日葵を隣に寝かせながら宿題をしていた蓮が、居間のちゃぶ台でノートに突っ伏して熟睡していた。
その背に、親葉がバスタオルをそっと掛けた。
「・・・よくやってるよ、蓮は」
「ええ、最初話を聞いた時はどうしようかと思ったけど」
親葉が、柊子に冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出し、差し出した。
「・・飲むだろ、おふくろ」
「サンキュ、息子」
二人は蓮を起こさない様に縁台まで行き、プルタブを起こすと乾杯をし、一気にあおった。
「ああ、本当この一杯の為に生きてるわ~。最高!」
「おいおい、起きちまうよ」
焦る息子を尻目に、柊子は更にビールをあおった。
「・・・柚子さん、今、どんななんだ?」
「ああ・・未だショックが尾を引いていてね。あの子、あんまり打たれ強くないから」
「旦那は捕まんないのかよ」
「ヨアンねえ・・今はどこにいるやら。確か中東の・・・なんとかって国」
「銀行員なんだっけ?仕事」
「そう結婚の報告の時には言ってたわね」
「・・・・・・・」
二人はしばし無言で、遠くで聞こえる・・・サラサラと葉の擦れ合う音に、じっと耳を傾けていた。
「なあ・・・おふくろも気づいてるだろうけど。・・・・蓮は本当に首筋を咬まれて、誰かと”番”になったのか?」
「・・・弁護士が持ってきた「診断書」では、そういう事だったわ。首筋に、複数の”咬み跡”が存在したと」
「・・・幾ら、まだ解明されてない領域とはいえ・・・」
「あれじゃあ、幾ら抑制剤を飲ませてたからって、同じことが起こるでしょうね」
親葉は空を見上げて、大きく溜息を吐いた。
「あいつのフェロモンは全く消えてない。首筋にはちゃんと跡があるってのに。・・・・あれじゃあ、周りのアルファが気の毒だ」
「・・・貴方もね」
「・・・・・・」
「それで、小屋に移ったんでしょう?」
「ばれてたのか」
「わかるわよ、私もアルファだし。私は齢食った分だけ鈍感になって来てるんでしょうけど。貴方みたいな年頃の青少年には、あれは堪んないわよね」
「先月は、アイツをもう少しで襲いそうになった。・・・どうしていいかわからなくて、とりあえず距離を置いた。・・・悪い」
項垂れる親葉の背を、柊子は優しく撫でた。
「未遂でよかったわ。・・・あの子を守れるのは私達だけだもの。貴方にも辛い役回りをさせるけど、頼んだわよ親葉」
「・・・そうだな。おれも、研究員時代の伝手で、フェロモンの事調べてみるわ」
「またもし”発情期”が来たら、取り返しのつかない事になるわ。その前に手を打たないと」
「普通は”番”になれば、フェロモン分泌は抑制される筈。・・・あんなに辛い思い
してまで、あの齢で出産したってのにな・・・」
「ついてないわね、あの子も」
二人はじっと、静かに寝息を立てる向日葵と蓮を見つめた。
遠くで、誰かの上げた花火がパンと大きな音を夜空に立てた。
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