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7.呼びかける声
四人の男達は、漁をしていた。
海が時化ていると、知ってはいたけれど、船が出せないというほどではなかった。
勿論、予報もしっかりと確認したうえで、万全の備えで船を出した。
ところが、予測に反して風は一気に強まってしまった。
男達は危険を感じ、速やかに引き返そうとしたが、残念ながら遅かった。
散々強風に煽られて、船は転覆し、男達は海へと投げ出されたり、船内に閉じ込められてしまった。
男達は絶望感に満たされながら、水の中に沈んでいき、意識はやがて遠のいていった。
……それから、一体どれくらいの時が過ぎたというのだろう?
どこからか、呼びかける声が聞こえる。
(大丈夫ですか?)
(……?)
朦朧とした意識の中で、必死に呼びかける声がする。
男は返事をしたいと思ったけれど、声を出すことはできなかった。
(よいしょっ)
なぜか、小さな女の子の姿が見えた。
彼女はどうやら、男を抱えようとしているようだ。
(助けに来ました)
なぜか、重さを感じない。暗闇の中に浮いている。そんな感覚。後になってから男は、そう思ったものだ。
不思議と、呼吸もできている。苦しさは全く感じない。恐怖や不安も、感じない。
ここは深い深い、海の中のはずなのに、安心感すら込み上げていた。
光も差し込まなくて、限りなく黒一色に近い、青色の世界なのに。
船長の男は今、そんなところにいた。
(……死ぬ、のか)
そう思ったけれど、どうやらそうでもなさそうだ。
家には家族がいる。
船の燃料は高騰して、漁の成果も芳しくなかった。
不漁続きだけど、船を出さないわけにはいかなかったのだ。
それは、他の三人も同じことだった。懐事情は誰もが厳しい。
(もう、大丈夫ですよ)
ささやくような声がする。誰かが、自分の手を握っている。とても小さな手だった。
(狐……?)
暗闇の中にぼんやりと、姿が見えた。
それは、狐のような耳をした、小さな女の子の姿。彼女の後ろに見えているのは、尻尾だろうか?
耳も尻尾も、きつね色と形容されるような、茶褐色だった。けれど、尻尾の先っちょの方については、白っぽかった。
(君は……)
誰? と問いかけようとしたけれど、相変わらず声は出なかった。それを知ってか、女の子はにこっと笑った。
ああ、可愛い子だなと、男は思った。自分の子供が小さかった頃を思い出す。
この子は自分を助けようとしてくれているのだ。
どうやって? そう思ったところで、テレビのスイッチを切ったかのように、ぷつんと意識が途切れた。
……かと思ったらまた、唐突に覚醒した。
「あれ?」
「気がついたようだね」
「ここは?」
そこはベッドの上だった。白衣を着た男が、声をかけた。医者のようだ。
ここは病院だと、男はすぐに知ることになる。
そして、他の三人も無事だということも教えてもらった。
(夢、だったのか?)
現実味がまるでなかった。
男達は漁に出て、海難事故に遭った。
生存が絶望視される状況で、男達は奇跡的に、小さな浜に流れ着いたのだ。それも、四人全員が揃って。
それを目撃した人が通報して、事故が発覚した。
男達は皆、大量の水を飲み込んでいたが、幸いにも死に至ることはなかった。
(……)
あり得ないことだと、男達は誰もが思った。けれど、現実として自分達は助かっている。奇跡を認めざるを得ない。
(狐につままれたみたいだ)
神社の巫女さんが着ているような、紅白の服を着た、小さな女の子。何故か狐のような耳と尻尾をつけていた。
誰も信じてくれるはずがない。そう思ったから、四人の男達は皆口をつぐみ、誰にも言わなかったけれど。確かにそんな姿を見たのだ。
(ありゃあ、もしかすると……。神様だったのかもな)
事故から数日がたち、男達は無事に退院することができた。そして、家族と再会することもできた。
男達は、命のありがたみを実感していた。
それから……。
「実はよぉ」
転覆した船について、保険の手続きだの諸々の処理をしようと、四人が集った時のことだった。
船長の男が、とても言い辛そうに打ち明けた。信頼関係で結ばれた、この連中にならば、話してもいいかなと思ったから。
「あん時さぁ。……信じてくれねぇだろうけど。俺。多分さぁ……神様に、助けられたんだな」
「船長。それ、ひょっとして。紅白の服を着た……」
「なんだか狐みたいな……」
「小さな女の子じゃなかったっすか?」
男は目を丸くしたものだ。てっきり、死にかけて走馬灯でも見たんじゃないかとか、言われると思っていたから。
「お、おいおい。何で知ってんだよお前ら」
「船長こそ、何で知ってるんすか?」
「何でって……。そりゃおめぇ……。見たから、だよ……」
四人は顔を見合わせて驚いたものだ。
「不思議なこともあるもんだなぁ」
それから、男達が住む集落の片隅に、お稲荷さんが祀られることになった。
男達は互いにお金を出しあって、小さな、ささやかな社を作ったのだった。
そして彼らは、漁に出る度にお参りして、安全を祈願した。
……ちなみに、お供えされるのはお酒ではなくて、ジュースなのだった。
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