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1.お出掛け日和
「ふわわ……」
背丈は未就学児くらい。子狐娘にして稲荷神の狐乃音は、思わず感嘆の声をあげた。
彼女の目の前には、丸くて分厚いガラス窓。そしてその向こう側には、大量の水。
静かで薄暗くて、深い青に包まれた空間。
そう。ここは水深八メートル程の、海の底なのだった。
「すごいです!」
狐乃音は今お兄さんと共に、とある公園の海中展望塔へと来ていたのだった。
海の中に塔が建っていて、螺旋階段で下まで降りていくと、海底の様子を楽しめるという施設なのだ。
……ちなみに狐乃音は今、外出モード。そんなわけなので、子供服姿。普段着ている、紅白の巫女装束姿ではないのだった。
ぴょこぴょこと動く、とっても可愛らしい狐のお耳はしっかりとしまっておいた。ボリュームたっぷり、ふさふさの狐尻尾もちゃんと封印済み。ぬかりはありません。
「お父さん。すごいのですよ~!」
そして狐乃音は、保護者であるお兄さんを、そんなふうに呼んでいた。
「そうだね」
同伴者のお兄さんは、優しい笑顔。
狐乃音は普段、彼の事をお兄さんと呼んでいるけれど、お外ではあえてお父さんと呼ぶことにしているのだった。
それはなぜか?
理由は簡単。お兄さんがお巡りさんから職務質問を受けて、警察署にしょっぴかれてしまうのを防ぐためだ。
お兄さんが、小さな子を連れ回している不審者だと思われないようにとの、狐乃音が発案した配慮なのだった。親子と思われれば、怪しまれることもないだろうから。
「お父さん! 海もお魚さんも、すっごく綺麗なのです~!」
まさに、見るもの全てが目新しい。狐乃音は楽しくてたまらないようだ。
「綺麗だね~」
――ある日のこと。お兄さんは狐乃音に言った。
狐乃音ちゃんは、海に行ったことはあるの? と。
そうしたら、狐乃音は頭を振りながら答えた。
『海は、行った事がないです』
お兄さんは、続けて言った。
それなら。海と、水族館に行ってみない?
狐乃音は、ピンとこないようだった。イメージが浮かばないのだろう。
『水族館って、なんですか?』
……お兄さんは狐乃音に、海や、水族館がどういうところなのかを、詳しく教えてあげた。
例えば。でっかい水槽があって、お魚がいっぱいいて、とっても楽しいところ。
イルカが目の前で大ジャンプして、迫力満点なショーを見せてくれるところ。
ペンギンが目の前を歩いていて、突然、水の中にダイブしてみせたりするところ。
『行きたいです~!』
説明を聞いているうちに、狐乃音は大いに興味を持ったようだ。
そんなわけで狐乃音は、お兄さんが運転する水色の軽自動車に乗って、南の方へと向かうのだった。
天気は快晴。
陽光が照らす平日の真っ昼間。
大した渋滞もなく、車は快調に進んでいく。
移り行く景色はとても綺麗。
満開になった桜の木も、華やかな黄色の菜の花畑も、全てが眩しく輝いて見える。
狐乃音はとってもうきうき気分。
――話の始まりは、昨日のこと。
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