耳とナイフと怪物と

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 突如として襲い来る、鋭利で長大な爪。その残虐な凶器は一瞬の内に、言葉を途切らせて固まっているマテルナの眼前にまで迫り来る。殺意を持ってして彼女を引き裂こうとする怪物の姿を視界一杯に映してなお、マテルナは縛り付けられたかのように動けなかった。 「危ない!」  しかし、間一髪、咄嗟に反応したレミルとアリアが彼女を突き飛ばす。あわやという所で爪の先端がマテルナの頬を掠め、そこに紅線を刻んだ。そして、地面に身を投げ出して尻もちをついたマテルナは、慌てて顔を上げると、今しがた自身を八つ裂きにしようとした異形の姿を目に捉える。  それは、燃えるような悪意と敵意に満ちた、獰猛で血走った瞳を持っていた。一見すると立ち上がった虎と熊の中間のような容姿に見えるが、その本質はそれらよりも遥かに残忍であろうことがすぐに分かる。猛り狂ったように荒い鼻息を忙しなく立て、肉を食らう衝動を抑えきれないかのように大きな口を開けて、奥にずらりと並ぶ牙を剥き、仕切りに噛み合わせていた。更に恐ろしい事に、耳の後ろからは水牛のように立派に捻れた大きな角を生やしている。  人の倍ほどはあろうかという体高を、血のような赤く逆だった毛並みで包み込んだ二足歩行。体幹の筋肉は隆々と盛り上がっており、過剰なまでの怒張により、所々に血管が浮き上がっている。先程、一人の少女に向けて振るわれたその五本爪は、まるで鍛えあげられた青銅の柱のように長く、鈍い照り返しを放っていた。もしもそんな物で引き裂かれようものなら彼女の細身など簡単にばらばらになってしまうであろうことが容易に想像できた。  そんな、紛うことなき「化け物」とも呼べる存在が、今しも不釣り合いなほどか弱い一人の少女を見下ろして、鼻息を荒らげているのだ。今まで彼女の村を襲っていたような無数の低級魔獣とは違う、明らかな破壊と殺戮の衝動の体現。これまで彼女達は、あの低級魔獣達にすら為すすべなく蹂躙されてきたというのに、まるでそれらが可愛げのある存在であったかのようにさえ思えた。
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