親父の一番短い日

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 母は数百万円を返済するか、自宅を明け渡すかの切迫した状況に追い込まれる。俺たちは少しでも持ち出しを減らすべく、訴訟を起こすしかなかった。それに係る弁護士の手配。裁判の手続き。裁判所での聞き取り…  母は高齢で病弱、世間に疎い。雑事は全て俺がやるしかない。こっちも仕事をしながらだ。神経がゴリゴリと削られる日々が続き、俺も心身ともに疲弊した。  それから母は、親父の世話に一層消極的になった。いわゆる顔も見たくないってやつだが、無理もない。見舞いに行き、母が待合室に退避する間、俺は親父と2人で話した。元々会話のない父子が話すことなんて…覚えているのはこの程度だ。 「ほら、今はスマホで音楽を聴けるんだよ」  俺はエルヴィスの『サスピシャス・マインド』を聴かせてみせる。 「へえ、いいもんだな」  親父は楽しそうに笑った。 「エルヴィスは兵役前までしか認めねえ」という小生意気なガキの俺に対して、親父が「その後もいい曲あるんだぞ」と教えてくれたのが、『サスピシャス・マインド』だったんだ。  俺は、晩年の日和った(ように見えた)エルヴィスが好きではなかった。だが今ならわかる。確かに名曲だよこれは。  曲が終わって。テレビには某弁当チェーンのすき焼き弁当のCMが流れていた。鍋の時期かとぼんやり見ていると、親父が呟く。 「美味いもんが食べたいなあ。こんなすき焼きとかさ」  …何故だろう。その言葉が心に突き刺さった。面倒くさがる母を従えて、俺はいったん車で病院を出る。検索すると病院近くにも弁当チェーンはあった。俺は凄い勢いですき焼き弁当玉子付きを買い、すぐに病院に戻ったんだ。 「これ。温かいうちに食べてくれよ」 「すまないな」
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