最後の恋のはじめかた~イーブンな関係~

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最後の恋のはじめかた~イーブンな関係~

 ドアが閉まることも待たずに、後ろから長い腕が自分を包み込む。江越昌征(えごしまさゆき)は、十歳年下の恋人、百瀬啓太(ももせけいた)を甘く睨んで振り返った。 「啓太、まだここ玄関!」 「ここまで我慢した!」  啓太はそう言うと昌征の顎に手を掛け、強引にキスをした。開かされた唇の間から啓太の舌が入り込む。昌征のそれを絡め、貪るような激しいキスに、昌征はついていけずに啓太の上着を握りしめ、そのまま引っ張った。  その時だった。  ビリ、と普段聞くことのない、布地が裂ける音がして昌征はもちろん、啓太も動きを止める。  そっと体を離し、昌征は啓太の肩に視線を合わせてから、あ、と声を漏らした。  昌征が思い切り引っ張ってしまったからだろう。肩の部分がほつれ、裂けてしまっていた。これではもう着ることが出来ない。 「……ごめん、啓太」 「あー、うん、まあ仕方ないよ。元々ボロかったし」  貧乏学生と自称する啓太は、自分で生活費を稼いでいて、服も昌征に比べたら持っていない方だ。上着なんて、季節に一枚程度しか持っていないのだろうということは、ここ数か月一緒に居れば自然と分かる。 「弁償する」  裂けた布地はどう見ても繕えそうにはなかった。自分が破いてしまったのだから、それくらいはしたいと思い、そう言うが、啓太は首を振った。 「いいよ、そんなの。がっついて怯えさせたオレが悪いんだし」  啓太はそう言うと、昌征の頬を両手で包み込んで微笑んだ。そのままキスをしようとするので、昌征はそれを拒むように両手で啓太の胸を押す。 「いや、ダメだ。これは大人としてのケジメ。弁償させないっていうなら、今日は指一本触れさせない」  昌征が啓太を見上げて言う。啓太は、眉を下げ、えー、と悲しそうな顔をする。本気だと伝えたくて、昌征が啓太の手を振りほどいた。 「……もー、分かったよ。じゃあ、明日はお買い物デートってことでいい?」 「……デート?」 「そう、デート。しばらく外で会ってなかったし、いいでしょ?」  確かにこのところは互いに忙しくて、クリニックか今いる昌征の自宅のどちらかでしか会っていない。たまにはいいか、と昌征は頷いた。  瞬間、啓太の表情が華やぐ。 「ありがと、先生」  啓太はそう言って微笑むと、昌征に優しいキスを落とした。  翌日、昌征が車で啓太連れて行ったのは、昌征自身がよく行く百貨店だった。このメンズフロアで昌征はよく買い物をする。啓太ならどんなものでも似合うだろうが、カジュアルなものが好きなのだろうから、そんな品物が揃っていそうな店に入ると、啓太が店の前でぴたりと足を止めた。 「啓太?」 「先生、無理」 「は?」 「オレ、こんな高い服着れない」 「そんな高くないよ」  ふふ、と少し笑ってから答えると、啓太は大きく首を振った。 「シャツが一枚一万円とか考えられない! オレ、一万あったら二週間生きていける!」  なんとも啓太らしい答えに、昌征が笑う。確かに一万円あれば、倹約家の啓太なら余裕なのだろう。そこは価値観の違いなんだと、受け止められる。 「でも、どうせ俺が買うんだし。啓太は値札みないで選びな」  昌征が言うと、啓太は思い切り嫌そうな顔をして、うわあ、と口を開いた。 「出たよ、先生の大人の余裕発言! そんなこと言われたら余計にヤダ」  つん、とそっぽを向く啓太を見て、昌征は心の中で、出たよ、訳の分からない意地っ張り発言、とため息を吐いた。 「じゃあ、どうするんだ? まだ上着がないと困るだろ。それに昨日、弁償させるって言ったから受け入れたのに」  もう二度と啓太としないけどいいか、と若干脅しのように昌征が言うと、啓太は慌ててこちらを見やった。 「それはヤダ! じゃ、じゃあ、オレが行く店で買って!」 「分かった。まあ、啓太のものを買うんだから、啓太が行く店の方がいいだろ」  昌征が言うと、啓太はほっとしたように息を吐いてから、うん、と頷いた。 「ホントにここでいいのか?」 「うん。ここがいい」  車を郊外へと十分ほど走らせたところにあるファストファッションの店の前で、昌征は啓太に聞いた。啓太は笑顔で頷く。  確かにこういった量販店は学生の味方だし、昌征も利用したことがないわけではない。しかし今日は弁償とはいえ、プレゼントを選びに来ているのだ。もっと高い物をねだられても買うつもりでいた昌征にとっては肩透かしだ。 「啓太がそう言うなら……いいものがあるといいな」 「うん、先生が選んでくれたら何でも嬉しい」  啓太はそう言うと、行こうよ、と昌征の手を引いた。  こんなところで手なんか繋ぐな、と怒ろうと啓太を見上げたが、その横顔がいつもよりもずっと幸せそうで、昌征はもう少しだけなら、と啓太に手を引かれて歩いた。  結局啓太が選んだのは、三千九百八十円のデニムジャケットだった。  啓太本人はとても気に入って、買ってすぐに着ているくらいだから、満足しているのだろうけれど、なんだか釈然としないのは昌征の方だ。十歳も年上の恋人がするプレゼントではない気がするのだ。十倍くらいの値段のものでもちょうどいいくらいだ。  じゃあせめて食事は豪勢に寿司かフレンチ、と思っていたのにファミレスで割り勘、と啓太が譲らなかったので諦めてそうした。  確かに二人で過ごせるのならどんなデートでもいい。けれどやっぱり昌征としては、大事な相手に少しでもいいものを買ってあげたいし、美味しい物を食べさせたいと思うのだ。それで、ありがとう、なんて言われたら何にも代えがたい価値がある。  家に帰ると、昨日録っておいた映画観ようよ、と啓太は昌征をソファに座らせた。コーヒーを淹れ、昌征に手渡すと、自分もその隣に落ち着く。 「先生、なんか、不機嫌?」 啓太はそっとこちらを見て、そう聞いた。家に帰ってからずっと黙っている昌征に不安を覚えたのだろう。単純に考え事をしていただけなので、昌征は、いや、と緩く首を振った。 「ちょっと考えてたんだけど……啓太がさ、お金を大事にしてるのは知ってるよ。でも今日は奢るって言ってるのに甘えようとか思わないのか?」 「うん。全然思わない」  きっぱりと答える啓太に、昌征は更に聞く。 「じゃあ、俺が食べたいから寿司とかフレンチとか付き合えって言ったら、どうする?」  その質問には即答はなかった。少しだけ考えてから、そうだな、と難しい顔をする。 「上手くできるかは分かんないけど、作ってあげる」 「……は?」  予想外の答えを聞いた昌征は手にしていたカップを落としかけ、慌ててそれを目の前のテーブルに置く。それから啓太の顔を見つめ、答えを待った。 「レシピさえあれば作れると思うんだよね」 「作るって……素直について来ないのか?」 「うん。自分で払えるようになるまではね」  にっこりと笑って言う啓太の目に迷いはなかった。偽りなく、そう思っているのだろう。ここまでくると意地としか思えない。 「啓太は、俺にお金を出させるのすごく嫌がるけど、どうして?」  お金で苦労したことは知っている。昌征に対しても借りがあると思っているところはあるだろうから、負い目みたいなものはどうしても感じてしまうだろう。けれどそれは将来いつか返す、という約束をしているのだから、この場合は関係ないはずだ。 「前にも言ったと思うけど、オレは先生とイーブンな関係になりたいんだ。お金にこだわるのはその内のひとつだよ。もっと大人になったら寿司でもフレンチでも行こうって言えるから待っててよ」  ね、と笑うその顔に、悶々としていた昌征の気持ちもため息と共に消えていく。子どもっぽいと思っていたけれど、こうやって少しずつ大人になっていくのかもしれない。やがて歳の差なんて飛び越えてしまうのではないかと思うと、それはそれでなんだか嬉しいような気がして、昌征は小さく笑った。 「やっと笑った。先生の笑った顔、オレ大好きだよ――やっぱり映画やめて、しようよ、先生」  どさりとソファに押し倒され、昌征は啓太の顔を見上げた。少し鋭くなった目が、自分が欲しいと訴えている。そんなものを見せつけられて、昌征が拒否することなど出来なかった。 「……やっぱり、イーブンになんてなれない」 「え? だから、オレ、ちゃんと頑張って先生に追いつくように……」  焦ったように言う啓太に、昌征が笑いかける。 「そうじゃなくて。こうやって、啓太の顔を見たら何でも許しちゃうんだよ、俺。な? 全然イーブンじゃない」  そう言って昌征が啓太に手を伸ばす。啓太はその手を掴んで手のひらにキスをすると、嬉しそうに微笑んだ。 「そういうことなら、一緒だよ。オレは、先生の顔見たら抱きしめてキスしたくなるよ」 「どこが一緒なんだよ」  眉根を寄せて言い返すと、一緒だよ、と啓太が返す。 「オレも先生には弱いんだから。先生のために何でもしてあげたい」  そう言って啓太が今度は唇にキスを落とす。唇が離れると、昌征はくすくすと笑った。 「まあ、そういう意味ならイーブンかもしれないな」 「でしょ? 先生、大好きだよ」  啓太が蕩けそうなほど優しい顔をする。その顔に昌征はそっと唇を近づけた。  俺もだよ、という言葉はキスの中に溶けていってしまったけれど、きっと伝わっていると信じて、昌征は目を閉じた。
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