ありふれた理由

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ありふれた理由

人事という仕事を、俺は果たして好んでやっているかと言われればそうではない。大学在籍時に就職活動をした。その結果、たまたま内定をもらった会社の一つが現在在籍している日本メトロン株式会社だった、それだけのことである。  そしてこれまた俺を人事に配属したのも人事である。なんとも堂々巡りな感じだが、俺もまた人事の仕事で新入社員を人事に配属させることもあるのかもしれない。人事という仕事は何も人員の確保だけが全てではない。今いる社員や、あるいは中途で入ってくる人のことも考えなくてはいけないのもまた人事である。  「ま、俺たちのやってることは便利屋みたいなもんだ」  と、同じ課の先輩社員である地頭園克己は言っていた。流石にそれはアバウトすぎると思ったものだが、そんなことをわざわざ口に出して波風を立てるような真似はしない。地頭園は先輩社員の中では良識がある方だが、そも俺——神木秋彦は口数が多い方ではないだけだ。順風満帆、世間的にはそう見えるであろう俺のサラリーマン生活も早いもので8年目に突入していた、そんなある日のことだった。    七月初頭のこと、まだ梅雨の尾を引いているような天気だった。曇り空で、今一つまだ夏と言い切れないような天気だった。気温だけはいっちょ前に夏だった気がする。  「なあ、聞いたか?」  「何ですか?」  質問に質問を返すというのは不毛だったが、しかし知りもしないことを知ってるかと問われては首を傾げるだけだ。素直に何のことかと聞く。  地頭園は話しを広げたかったのか、そんなことは気にも留めず話してくれた。始業前、デスクでメールのチェックをしつつ俺は地頭園の話しに耳を傾けた。  要はこうだ。  俺が在籍している日本メトロン株式会社は所謂メカトロニクス分野において、近年目覚ましい発展を遂げた会社だ。海外との取引も多く、数年前東証二部から一部上場を果たした。そのこともあり、本社では毎年新入社員を20人前後採用する傾向がある。おかげで人事の仕事もことに欠かないのだが、中には手を焼く仕事もある。俺は半ば予想はしていたが、どうやら新入社員の一人が退職の意思を示しているらしい。  ここまではよくあることだ。何も会社に入ったからと言って一生安泰というのはもう昔話、おとぎ話のようなものだ。毎日毎日変化の多い社会の中で、一つの会社でずっと定年まで働くというのはむしろレアケースのようなものだろう。新入社員とて例外ではなく、水が合わなければやめていくというのはよくある話しだ。  だが、問題はその辞めたいという社員のことだった。  彼は堤正人と言った。大学の情報系を卒業し、うちに内定を貰い入社してきた。今どき珍しいくらいに人当たりが良く、そして物覚えがいいと聞いている。仕事もどんどん覚え、将来が楽しみだなと地頭園も言っていたのを覚えている。  そんな彼が入社し4カ月ほどして退職の意思を示してきた。これは少し妙だ。仕事もできる、人当たりも悪くない。ともすれば辞める理由など思い当たらない。無論辞めたい理由など人それぞれではあるだろうが。  「で、まあなんとか上長たちが説得してるみたいなんだけどさ。なかなか意志は固いみたいでね」  「はあ、それは大変ですね」  気の抜けた返事を返してしまった。どうも考え事をしてる時に話しかけられるのは苦手だ。俺は人事の仕事をしてはいるが人の顔を覚えたりするのは得意ではない。だが、堤のことは良く覚えている。というのも、彼と面接をした時その場に俺はいたのだ。俺も8年目だが、人事の仕事は多岐にわたる。面接官を担当するのも、これまた人事の仕事の一環なのである。とはいえ、人を見るというのは経験による部分も大きい。そのため、俺も面接などに関してはまだまだ新人だというわけである。堤は面接の時、とても印象に残った。感情がとても豊かで、緊張する学生の中では愛想笑いではなくほんとに笑顔を浮かべていたように感じていたからだ。  土壇場に強いというか、肝が据わっているというか。  単純に俺が面接を担当した数少ない学生の一人だったからというだけのことかもしれないが。  俺は適当に地頭園の話しを聞きつつ、なぜ堤は辞めるだなんて言い出したのかを考えていた。しかし直接的に接点があったのはそのくらいなもので、結局始業前の時間で考えた程度のことでは分かるはずもなかった。    人事課にも人は入ってくる。勿論現場で働く人間以上には入ってくることはないが、それでもある程度人事にも人は回ってくる。現状のためというよりかは先行投資の意味合いが大きいだろうが、それでも今年は一人人事に新入社員が入ってきていた。  大和麻梨乃という、一度聞けば早々忘れない名前の女性社員だ。こちらもまた堤同様に大学を卒業し入社してきたというクチである。  色が白く、いつもポニーテールなので男性社員の間ではポニテちゃんなんて影で呼ばれている。流石に本人に知られればハラスメントのそしりを受けるところだが、まだ本人は知らないらしい。まあ、時間の問題ではあるだろうが。  ちなみに俺はポニテちゃんとは呼んだことは一度もない。知ってはいるのに傍観しているだけとは、俺も部外者とは言えないかもしれない。ともかく、人事にいてかつ堤の同期である彼女なら、堤が辞めたいと言っている理由を何か知っているかもしれない。午前の仕事がひと段落したところで、俺は大和に何とはなしに話しを振ってみた。  「堤さんって、確か製造技術三課所属でしたよね」  そう言って大和は口を開いた。確かめるような口調だったが、普段から毎日接点があるわけではないこともありどこか曖昧な印象を受ける。言われれば俺にも同期というものがいるが、俺が入社したころはまだ上場していなかったこともあり同期は数えるほどしかいなかった記憶がある。今現在その同期の全てがいるのかさえも俺は知らない。立場上調べることもできるが、そこまでしようとは思えないあたり人間関係の深さが知れるというものだった。  せいぜい大和には同期を大事にして欲しいものだ。  「製造技術三課が、どうかしたのか?」  「いえ、それは……」  俺は大和が言葉を選ぶようにして話そうとしている理由が分かっていた。この会社で働いているなら、それとなく皆察する。わざわざ言いにくいことを新人に言わせるほど、俺も嫌な人間ではない。  「内島さんのことだな」  神奈川でもそれなりの規模を誇る日本メトロンだが、一部署の人間の名前が広まるというのもすごいことだ。もっとも、それが必ずしもいいことだとは限らない。というか、こういう場合は大抵悪評の場合がほとんどだ。  それは内島部長も例外ではない。  「矢次くんも、橋谷さんも顔を見るたびに私に愚痴を言ってくるくらいには苦労してるみたいなんです。でもこればっかりは……」  「しばらくすれば面談なんかもある。人事はそのために存在するんだ。大和さんも同期を助けると思って頑張って欲しい」  「は、はい!」  新人らしい元気な返事だ。だが、肝心の堤のことはまだ全て聞けたとは言えない。内島は何年か前に例の部署の部長に就任した男だ。だがそれ以前よりあまりいい評判はなかったが、余程上に良い顔をしたのか謎の人事だと今でも言われている。  組織が大きくなれば、それもこれから先ままあることなのかもしれない。  「あ、でも堤さんは流石ですよね。大学の時は水泳部に入ってたみたいで。パワハラ部長が相手でも全然うまくやってるって聞きます。他の人たちも見習ったらうまくいくかもですね」  「水泳部、か」  俺の人生で運動系の部活動やサークル活動をした記憶はない。ただ、その光景を見ていたことはある。野球部の友人もサッカー部の友人も、バレー部の友人もいた。確かに彼らは精神的にタフな奴が多かったような気がする。それで堤もメンタルが強いとまでは言い切れないが、考慮する材料にはなるだろう。  つまり、堤が辞めたいという理由に人間関係は無関係だと言える。  「ありがとう大和さん、参考になった」  「へっ? 私、何か言いましたっけ」  一方的に感謝されても大和も困惑するだけだ。分かってはいたが、少しだけ進展したようで思わず感謝の言葉が継いで口を出た。昼休憩のベルが鳴る。俺はそのままデスクを後にすると、社員食堂へと足を向けた。    (しまったな……)  俺はトレイを持ち、そのまま受け取りの列に並んでいた。そこまでは良かったのだが、しかし来るタイミングが良くなかった。既に食堂の中は人でごった返していた。いつもは時間をずらして来ていたことで多少混雑を避けられていたのだが、今日は浮足だったせいか込むタイミングで来てしまった。これで良くないのが座る席がないことが一番困る。流石にトレーを持ったまま食事はできない。  「何とか座れたらいいんだけどな」  週に数回食べるカレーセットを持ったまま、俺は彷徨うように食堂の中を歩いていた。半端に広いせいでこれまた苦労する。  ふとその時、俺は探していた顔を見つける。  「草峯さん、お隣いいですか」  「ん? ああ、神木さん。一人飯は寂しいと思ってたところですよ。どうぞどうぞ」  お言葉に甘え、俺は草峯の隣に座る。生憎正面は既に埋まっていたが、俺は草峯——草峯係長と楽しいランチタイムを過ごしたいわけではないのでそれは良かった。むしろ色々と聞きやすい位置取りだ。気兼ねがない。  流石にいきなり堤のことを聞くのは憚られたので、取り留めのない話しをしつつ、それとなく堤のことを聞いた。  「上手くやってますか、彼は」  「あぁ、堤のことですか。惜しいですね、あれは」  「惜しい、ですか」  「あいつは器用だ、そのまま務めてれば昇進も間違いなかったでしょうに」  カレーを口に運びながら、俺は草峯の言葉を聞いていた。草峯は製造技術三課、通称製技三課において最後の良心と言われる男だ。分け隔てなく、それでいて指導熱心でもあるということで他の部署の面々からも頼りにされている。年齢的には内島とそう変わらないはずなのだが、俺からしてみても彼が部長職に抜擢されなかったのは残念だと思った。  「堤は、何か困っている様子はありませんでしたか? 俺も人事の人間として、少しでも彼の力になりたかったですよ」  「ふうむ、そうですね」  3割くらいは嘘だが、草峯は疑うこともなく考え込む。だがそれでも思い当たる節はないようで、肩を竦めるばかりだった。ことここに至り、俺はもう一つの可能性を考えていた。だがどうやらそれはほとんど外れだろう。  見れば草峯のトレーはほとんど空の皿ばかりだった。ここで引き留めては悪い、往生際悪く、俺はその外れたであろう仮説について尋ねた。  「堤はその、作業で苦戦していたとかありませんでしたか。草峯さんのところは組み立てたりする作業が多かった気がしますけど」  「あぁ、それですか。私が惜しいと言ったのはまさにそこなんですよ。これ、見てもらえます?」  「何です、これは?」  草峯のスマートホンの画面には組み立てられたパーツの写真が表示されていた。練習用のものらしいが、これは新入社員や中途社員が行った作業らしい。どれもそれなりに形になっているように見えるが、やはり完璧とは素人目にも言えなかった。   ただ一つを除いて。  「これ、組んだのは堤ですか」  「えぇ、私じゃなくても思うでしょう」  確かに、これは惜しいと思わざるを得ない。新入社員でこの出来はなかなかのものだ。配線の束ね方や部品の締め具合。満点とは言わないでもこれは九割あるだろう。これは、なかなか惜しい人材を失ってしまったのではないか。  だが、それと同時に俺の仮説が外れていたことを示していた。  「ありがとうございます、お時間取らせてすいませんでした」  「何、私もこの話しを分かってもらえて良かったよ。内島さんはどうも若いのが苦手みたいでねぇ」  「ははは、それは大変ですね」  それはもう、大変とかいう次元ではない気がした。この問題が解決したら内々に話し合いが必要かもしれない。  ともかく、草峯に続いて俺は食堂を後にした。午後の業務が始まるまで、俺はデスクで頬杖を突きながらトントンと机を叩いては思案を巡らせる。だが考えていたほとんどの仮説は外れた。後はもう本人に直接聞くくらいしかなかったが、残念ながらその機会は得ることができなかった。地頭園は面談をしたそうだが、堤は特に何も言わなかったらしい。それはそれで自然なことかもしれないが、どうにも腑に落ちないものを感じだ。  結局その日はモヤモヤした気分が晴れることはなかった。俺がタバコを吸う人間だったらワンカートン潰してしまうくらいにはモヤモヤしていた。  そうして問題は解決することなく、堤は会社を辞めた。俺には持論がある。それは辞める人間は周囲がどれだけ引き留めようとも辞めてしまうということだ。大抵の場合、辞めていく人間にはきっかけがある。それは水をせき止めているダムのようなもので、決壊してしまったものはおいそれと塞げるものではないということだ。  人事としてそれはいかがなものかと言われるかもしれないが、人事は神でもなければ仏でもない。配置を間違えることもあるし、社員からひんしゅくを買うことも珍しくない。それでも俺が人事の仕事を続けられているのは良くも悪くも、あまり他人の言葉に心を動かされないことが理由だろう。30年も生きていれば、なかなか性格というものは変わらない。俺は自分の性格を変えようとも思わないし、きっとこれからも思わないだろう。   それから数日後。自宅に帰宅すると、同棲している彼女が夕飯を作って待っていた。そういえば今日は俺が作る番だったはずだが、少々残業しすぎてしまった。来年度の採用のための会議が長引いてしまったのが良くなかった。  「すまん月子、遅くなった」  「まったくよ、今日は秋彦くんの番だったんだからね」  「埋め合わせはするよ」  そう言いながら着替えを済ませ食卓につく。せめてもの償いとして、今日の片づけは俺がしよう。そう思いながら俺は彼女の作った夕飯に手を付けた。しかし間が悪いことに彼女が作ったのはカレーだった。俺はスプーンを持ったまま少し固まる。  「……何よ」  先にカレーを食べ始めていた月子が棘のある言葉を投げかけてくる。折り悪く今日の昼もカレーだったと言いながらスプーンを口に運ぶ。味は全く違うのだが、同じ種類の料理を食べていると思うと少し辟易する。勿論味は言うまでもなく美味しいのだが、これはもう気分の問題という他なかった。  嫌なら食べなくていいわよなんて言われては困るので、俺はお替りすることにした。流石に月子を怒らせると怖い。  「それにしても、秋彦くんほんとカレー好きよね」  「そうか? 気にしたことなかったな」  言われれば俺はしょっちゅうカレーを食べている気がする。日に数回食べることもあるが、その時はもう「しばらくカレーは食べない」と言っている。その数日後にはまたカレーを食べているのだから俺も能がない。  「なんでだろうなぁ」  とぼけながら俺は再び食卓につく。不思議なものだが、これはもうずっと変わらないことのように思えた。それでも、うん。やはり月子のカレーが一番だ。こればかりは譲れない。  「そういえば、堤は結局会社を辞めたよ」  「あら、そうなの?」  月子には堤の話しを何度かしている。俺が気に掛けているので、月子も知らず知らず気にはなっていただろう。結果だけ話したが、月子は「仕方ないわよ」と言ってくれた。別に俺も気に病んでいたわけでもないが、少しだけ肩の荷が下りた気がした。  俺は今まで色々と聞いた話しを総括して月子に話した。分からないことばかりだったが、結局のところは——  「それ、好きになれなかったからじゃない?」  「え?」  俺はスプーンをカレーに突き刺したまま固まる。  好きになれなかった?  「け、けどあいつは惜しまれるくらいには技術はあったはずだ」  「うーん、でも私だったらそう考えるけどなぁ。写真、すっごい綺麗に組み立ててあったんでしょ? でも、それだけできて辞めるんだったらそれも考えられるんじゃない?」  「それは……」  「秋彦くんだって、もう食べないって言ってるくせにずっとカレー食べてるじゃない。それと一緒よ」  それは——そうなのだろうか。  カレーと仕事では比較にならないような気がするが、しかし月子のいうことにも一理ある気がした。確かに俺はカレーが好きだ。飽きてもいつしかカレーをまた食べている。これはもう、誰がどう見てもカレーが好きだからに他ならない。彼の仕事は機械を組み立てることだ。あれだけ上手く組めても、好きでなければ続けられないのか。  「秋彦くんだって、三日に一回レバニラ食べろって言われたらどう?」  「……」  返す言葉もない。俺はレバーが苦手なのだ。三日に一回も食べろと言われたらかなわない。堤も好きになれなかった機械の組み立てを毎日やらされていたとしたら、やっていたとしたら辞めたくなるのかもしれなかった。そこには人間関係も、そして技術の有無も関係ない。  好きになれなかったというのは、案外決断に大きく関わったことなのかもしれないな。  まあ、土台去って行った人の気持ちなど分かるはずもないが。  その日俺は食器を片づけた後、月子の肩を揉まされた。相談料らしい、月子には敵わない。しかし嫌ではない。だから彼女と生活を続けられるのだ。
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