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もうすぐ夏が始まるというのに、今夜は涼しい夜だった。ようやく布団の中が温かくなってきたところだったが、俺は温もりを名残惜しく思いながら布団から這い出た。
「はっ!」
彼女が目を見張るのが分かった。俺が動いたからだろう。案外くりくりした瞳をしている。同時に妙な声も止まったが、窓ガラスに押しつけた姿は変わらない。
俺は窓の鍵を外すと、窓ガラスをスライドさせた。ガラスにへばりついていた彼女は、手を横にスライドされバランスを崩し、部屋の中に倒れ込んできた。
「ぶっ」
彼女は頭をフローリングの床にぶつけるようにして入室。実に間抜けな姿である。
「……泥棒か何か?」
俺はおかっぱ頭を見下ろしながら言った。こんな小さな子が、とも思うのだが、勝手に家の庭に入り込んできているので不法侵入に変わりはない。
「ち、違うっ」
彼女は首を持ち上げ、俺をキッと睨みつけた。額は赤くなっている。
「どこんちの子だか知らないが、勝手に家に入ってきて……警察呼んで、引き取ってもらうからな」
枕元に置いてあったスマートフォンを手に取ろうとしたところで、
「ま、待てっ!」
彼女が叫んだ。言葉遣いのなっていない子どもである。
「何だよ?」
「私を、誰だと思っている!?」
「知らねぇよ。自分の名前も分からない迷子か。困ったな」
「私は……妖怪だっ!」
「……」
歯を剥き出しに言ってのけた彼女を見て、俺は思わず真顔になった。言葉が出ない。自分から言っちゃうのか。
彼女はニヤニヤしながら立ち上がった。肩幅に足を広げ、仁王立ちになる。
「ほほぉ……その顔は驚いているな? 驚くのも当然だ。何故なら私は――」
「『鵺だから』……って言いたいのか?」
「なっ……」
彼女は目を見開いて絶句した。いや俺より驚いてどうする。
「鵺を、知っているんだな!?」
「お、おぅ……まぁ」
「知っているのなら話が早い!」
「はぁ?」
「何故、私が鵺だと分かる!?」
答えるのが面倒な質問だ。できれば、はいさようならと言ってしまいたいところだったが。あまりにも彼女が真摯な目を見せるものだから、俺は溜め息を一つしてから答えることにした。
「……その格好と、鳴き声……かな」
「格好!? 鳴き声!? もっと詳しくっ」
「何でちょっと嬉しそうなんだよっ」
「いいから!」
と言って彼女は俺に一歩踏み込んだ。目を輝かせ、両手の拳を握りながら。土足――彼女は下駄を履いていた――で家に上がり込んで。言っていることはものを頼む態度と思えないのだが。
「あー……猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尻尾……それから、特徴的な気味悪い鳴き声……そんなとこか? 全てが一応、俺の知っている鵺に一致してる。見た目は置いておいて、何より声、だな」
頭を掻きながら適当に言葉を続ける俺だったが、読点(とうてん)の度に彼女は首を縦に大きく振っている。
「いいぞ、いいぞ、青年!」
「『青年』って、おい……」
「私はどこからどう見ても、妖怪の、鵺にしか見えないな? な?」
彼女の念を押すような言い方と、期待するような眼差しで、俺は察しがついた。ここは、彼女にのってやるのが正解だ。鵺がどんな妖怪なのかを知っていて、コスプレ紛いな格好でこの家へ――どうしてこの家が選ばれたのかは分からないが――やってきたのだろう。
いろいろな人間と関わってきた俺の経験によれば、ここで否定でもすれば、彼女は怒り出すに違いない。怒って大声でも出されれば、こんな時間だ、家の人間だけでなく近所にも迷惑をかけてしまうだろう。
「見えない、な」
俺の返答に、彼女は更に顔を輝かせる。
「何に? 何にしか見えないって!? もう一度、言いたまえ!」
「だから……鵺にだろ?」
「そうだよなぁ! そうだろうとも!」
投げやりな言い方になってしまったが、彼女は凄く満足そうだ。それから、俺の顔も見ずにこう聞いてきた。
「ちょっと家に入ってもいいか?」
「いや、ちょっとも何もあんた、もう入って来てるからな。下駄のまま」
「まあまあ、そう固いことを言わずに」
「どうしてそんな態度がとれるんだよ……」
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