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真実
「ああ、長谷川くん、ありがとう」
杉山は、封筒を差し出した理人にいつもの笑顔を返した。杉山は椅子に腰掛けたまま、封筒を片手で受け取った。
理人は表面的な笑顔で杉山に尋ねた。
「杉山准教授・・・この間のあれは、どういうおつもりで?」
「え?ああ、あー・・・あれは、黒瀬教授の気まぐれだよ。もしかして怒ってる?」
「怒ってなどいませんが・・・これを他人の手に任せるのは、あまり感心しませんね」
「まあまあ・・・そんな怖い顔しないでよ。僕は教授に言われたままにしただけなんだけどなあ」
「黒瀬教授にこのことで意見を述べられるのは、杉山准教授だけですよね」
「わかったわかった、俺が悪かった!すみませんでした!もう・・・黒瀬教授のことになると長谷川くん、怖いんだから」
「ご理解いただいたようで、安心しました」
杉山は理人の表情が緩んだのを見て、安心したように封筒の中身を取り出した。
「いつものように、これを小早川さんに渡せばいいんだな」
「はい、お願いします」
書類を封筒に戻すと、杉山は小声で理人にだけ聞こえるように呟いた。
「しかし・・・本当にウチの脳外科は信用してないんだな、黒瀬教授は」
「・・・弱みを握られたくないのではないかと思います」
「弱みね・・・んなこと言ってる場合じゃなくなってきてるっつーのに・・・」
理人の顔色が変わった。それに気づいた杉山が、いけね、と視線を逸らした。
「それは・・・どういうことですか」
「あ・・・いや、その・・・」
「教えてください!」
理人は杉山に詰め寄り、腕を掴んだ。医局の人間が、理人の大声に一斉に振り返る。杉山は周りを見回したが、理人は杉山の腕を離そうとしなかった。ちょっと来い、と言って杉山は理人を連れて医局を出た。
「そんな、嘘だ・・・」
「この間、学会で出張でがあっただろう。あの時だ」
「何も言ってなかったのに・・・」
「・・・君には絶対に言うなと・・・口止めされたよ」
「黒瀬教授は、今どこに?!」
「来客で外出すると言ってたぞ」
杉山の言葉を聞き終わる前に、理人は走り出した。
職員専用の駐車場に降りるエレベーターの扉が開いたのと同時に、理人は薄暗いコンクリートの通路に飛び出した。
黒瀬がいつも車を停めるスペースに向かいながら、理人の心臓は壊れそうに拍動していた。黒のBMWの横顔が見えてきて、理人ははっとして足を止めた。
黒瀬が車の脇で、携帯電話を耳に、立っていた。
何故か近づけない空気を感じて、理人は少し離れた場所から黒瀬を見ていた。
通話の相手に話しかける言葉の柔らかさが、仕事関係ではないことが感じ取れた。理人の居る場所からは、とぎれとぎれに黒瀬の声が聞こえた。
「・・・ああ・・・元気そうで、良かった。いや・・・」
理人は、理由もわからず激しくなる動悸に、自分の胸を押さえた。
黒瀬の声は、愛しいものに対してだけ出す、それだった。理人だけが知る、穏やかで優しいバリトン。
「話せて良かった・・・真人」
理人は動悸の理由を知った。
膝がひとりでに震え、両手で口を覆った。背中を壁に押しつけていないと立っていることも出来なかった。
黒瀬が電話を切り、車に乗り込んでも、理人はそこから動くことが出来なかった。エンジンの音が遠ざかって行って初めて、足の力が抜けて、その場に座り込んだ。
「・・・ふ・・っ・・・ああ・・・」
理人の口から、嗚咽が漏れた。押さえた手の指の隙間を、冷たい涙が通り抜けて行った。
「何で・・・今・・・」
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