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理人
長谷川理人(はせがわりひと)は、2年前からT大付属病院の薬剤師として働いている。教授である黒瀬との関係は、1年前からだった。
黒瀬の匂いの染み付いた白衣のボタンをきっちりと閉め、理人は調剤室の扉を開けた。
おはようございます、となじみの仲間たちの声が聞こえる。
いつもどおり穏やかな表情で、理人は挨拶を返した。
転勤してきた当初から、その中性的な美貌が注目された理人だが、薬剤師としての実力ももちろん申し分なかった。
「おはようございます、長谷川さん」
薬剤部ではもっとも若い、萩野 慧(はぎのけい)が理人に声をかけた。
「萩野くん、おはよう」
「あの、今日なんですが・・・」
「ああ、相談があるって言っていたね。終業後でいいんだったかな」
「はい!すみませんが、よろしくお願いします」
萩野は、身体をを90度に折り曲げて礼を言った。人懐こく、明るい萩野は、薬剤部のムードメーカーでもあった。
見た目の軽さに反して、礼儀正しいところが好かれていて、物静かな理人とはまた違う意味で、目立つ存在でもあった。
その夜、萩野は理人を行きつけだという居酒屋へ誘った。
「居酒屋なんて、普段来ないですよね?長谷川さん」
「そんなことないよ。こういう雰囲気好きだけどね」
「本当ですか?高級な店しか行かないんじゃないかと思ってました」
「全然庶民派だよ。よく誤解されるけど」
「長谷川さん、美人だからですよ!フレンチとか、イタリアンとか似合いそうだし」
「萩野くん・・・美人って、女性に使う言葉だよ?」
「えっ?あ、そうでしたっけ・・・でも、美人ってみんな言ってますよ」
「みんな?」
「薬剤部ではみんな美人って・・・あ、これ言っちゃダメなやつだったんですかね」
「僕に聞かれても困るんだけど」
「はは、そうでした、すみません」
萩野のあっけらかんとした口調が、どんな話題もまろやかにする。その雰囲気に飲まれて、理人はいつもより幾分酔っていた。
「それで?相談って、仕事のこと?」
理人が切り出すと、萩野は急に緊張した面もちで、姿勢を正した。
「相談っていうか・・・聞きたいことがあって」
「なに?」
「仕事がらみじゃないんですけど、いいですか」
「構わないけど・・・」
萩野は途端に声のボリュームを落とした。
「長谷川さん、黒瀬教授の研究室から出てきましたよね、今朝」
理人は、萩野の声を聞いても顔色を変えなかった。
そして、小さく笑って答えた。
「見てたんだ」
「・・・一昨日も、ですよね。確か先週の金曜日も」
「萩野くん、僕のストーカー?よく知ってるね」
「驚かないんですね」
「院内のことだから。誰かは見てるだろうね」
「教授と、個人的なお知り合いなんですか」
「・・・それは、プライバシーの問題だよ」
「・・・それはそうなんですけど、黒瀬教授、あんまり良くない話しか聞かないから、気になって」
言葉を切った萩野は、急激に背筋が凍るのを感じた。
理人の表情が、一変していた。
切れ長の瞳が、獣が獲物を捕らえる直前のような鋭い光を発していた。
ごくん、と自然に喉がなり、萩野は小声ですみません、と言った。
「どっち?僕のプライバシーについて?黒瀬教授のこと?」
「えっと、あの・・・」
「黒瀬教授の良くない話って、最近入った萩野くんまで知ってるなんて、きっとすごい話なんだろうね」
「・・・俺が聞いたのは、看護師とか事務員が・・・誘われるって・・」
「何に?」
「それは・・その・・・」
萩野が口ごもっている間に、テーブルに乗せた理人の携帯電話の液晶画面が光った。理人は携帯を手に取った。
「萩野くん」
「は、はいっ!」
理人は、携帯の液晶画面を、萩野に向けた。
白い文字で、黒瀬一樹、と表示されていた。理人は妖艶な微笑を浮かべていた。慧の背中を鳥肌が覆った。
「こういうこと?君が言ってるのは」
「あっ・・・あの・・・」
「悪いけど、僕はここで失礼するよ」
電話には出ずに、理人は立ち上がった。おろおろする萩野に、そういえば、と理人は見下ろしながら言った。
「萩野くん、君は、男も大丈夫なの?」
「え・・・っ?」
「じゃなかったら、気づかないよね。まあ、どちらでも構わないけど」
二の句を告げなくなった萩野を置いて、理人は居酒屋を後にした。
「長谷川です」
『どうしてすぐ出ない』
「すみません、同僚と一緒でした」
『言い訳はいい。すぐに来い』
「はい」
ぷつりと急に切れた電話を、理人はスーツの内側に入れて、タクシーに手を挙げた。
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