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過去 黒瀬と理人
『56番の方、お薬出来ています。窓口にお越しください』
3年前。理人は都内の総合病院に勤めていた。T大付属病院よりも規模の小さな病院ではあるが、脳外科が有名だった。
薬剤部は理人を含め5人。忙しい日々を過ごしていた。
『56番です』
『黒瀬一樹さん・・ですね。こちらは毎食後に服用してください。こちらのピンクの錠剤は、解熱鎮痛剤です。4週間分出ています』
『・・・・・・』
『黒瀬さん?』
『あ・・すみません、わかりました』
『お大事に』
窓口に立った56番の男は、薬を差し出した理人を、不躾なほどじっと見つめた。理人はちらりと見ただけで、すぐに次の患者の対応に追われた。
しかしその視線は、理人の心の中に知らずにひっかかっていた。
その日の終業後、職員通用口を出た理人は、コートの襟を立て寒そうに立っている男と目が合った。
理人が足を止めると、その男が軽く会釈をしながら近づいてきた。
それが窓口で不躾に見てきた56番の男だと理人が認識したとき、既に心臓はいつもより早く打ち始めていた。
『あの・・・』
『お仕事が終わるのを待たせてもらいました、いきなり申し訳ない』
理人よりひとまわり以上歳上だと思われるその黒瀬という男は、どこか慇懃無礼なところがあった。黒瀬は冷えた手で、名刺を差し出した。
『T大付属病院の、黒瀬といいます』
『T大・・・』
受け取った名刺には、教授、とあった。メディアにも取り上げられたことのある、医療業界では有名な人物だった。
理人は昼間に処方した薬の内容を思い出した。受診したのは、脳外科だったはずだ。
『お薬に何か不備がありましたでしょうか?』
理人は緊張した。処方した薬に間違いがあれば大事だ。が、黒瀬は言葉の意味に気づいたのか、表情を和らげた。
『あ、いえ、そうではなく・・・よければ少し、お時間をいただけませんか』
黒瀬が理人を連れて行ったのは、都内でも有名なワイン・バーだった。
行き慣れない高級店に、理人は身体を堅くして椅子に腰掛けた。
『急に申し訳なかったね。長谷川くんは、酒は?』
『あまり強くはありませんが、好きです』
『じゃあ、おすすめのワインがあるから、それを・・・』
黒瀬が薦める赤ワインを待つ間、理人は目の前の男をそっと観察した。
教授としては若い。自信に満ち溢れた物言い、洗練された身のこなし。身につけているのは全て上等なものばかり。髪にほんの少し白いものが混じっているが、それすらも彼を渋みのある男に見せる、装飾品に見えた。
そして、理人は彼のある特徴にも気づいた。
『それで、先生が僕にお聞きになりたいことというのは・・・』
『黒瀬、でいい。長谷川くんは・・・兄弟はいるかな。兄か、弟か』
黒瀬は、じっと理人の目をのぞき込んだ。眼光の鋭さに、怯む。
『双子の・・・兄がおります。ただ・・・』
言いよどんだ理人から、黒瀬は目を離さなかった。次の言葉を聞き逃すまいとしているようだった。
『事情がありまして、15歳から兄とは会っておりませんが・・・兄を、ご存じなんですか』
『失礼だが、お兄さんの名前は・・・』
『・・・真人、といいます』
黒瀬は、理人の口元を見つめたまま、固まった。
理人は気づかれないように息を細く吸い込んだ。黒瀬が兄を知っている、と分かった時点から、脇に汗が滲んでいた。
『やっぱり君は、真人の・・・よく、似ている』
『一卵性なので。黒瀬先生は、兄とはどういう・・・』
黒瀬の表情から、確認するまでもなく予想はついたが、理人は尋ねた。
『真人とは・・・1年前から会っていない。というより・・・連絡が取れなくなってしまって』
黒瀬は理人の質問とはずれた答えを、口ごもりながら呟いた。
まだ言いづらそうに、黒瀬は続けた。
『連絡が取れなくなってすぐに私が体調を崩してね。T大に世話になるのが嫌で、そちらの小早川先生に看てもらっているんだが』
小早川は、理人の働く病院の脳外科医だった。全国から患者が集まる腕利きの医者だった。
『今日、窓口で君に会って・・・目を疑ったよ』
『・・・10年以上会っていないのでわかりませんが、そんなに似ていますか、今でも』
黒瀬は幾分、興奮した様子で声を大きくした。
『ああ、とても・・・君の方が少し線が細いが、目元も、口元も・・・』
ただ懐かしんでいるわけではなく、個人的な関係があったことを示唆する言い回しに、理人は確信した。気分を害させないよう注意しながら、理人は言った。
『兄は・・・先生に大切にされていたようですね』
理人がこの一言に込めた意味を、黒瀬は感じ取ったようだった。
うつむいて黙った黒瀬が再び顔を上げた時、理人は、下腹部にずきんと鈍い痛みを感じた。
雄の顔をした黒瀬が、理人を熱っぽい視線で見つめていた。
『ああ・・・大切だった。確かに・・・』
『兄に連絡がつけば良かったのですが・・・お役に立てず申し訳ありません』
『いや、こちらこそ、無断で待ったりして申し訳なかった。事情があることも知らずに・・・』
『先生がご存じないのは当然です。お気になさらないでください』
『いや、本当に、勢いで食事にまで誘ってしまって・・・どうかしているな、私は・・・』
髪をかきながら、黒瀬は恥ずかしそうに窓の外に視線を外した。
黒瀬という男が、どういういきさつかは分からないが、真人と関係があったことは確かだった。
黒瀬に自分と同じ香りを感じたのは、間違いではなかったと理人は思っていた。
熱視線の先には、同じ顔をした、今となっては思い出すのも苦しい兄がいるのだろう。
『本当に今日は申し訳なかった。無礼をどうか許してほしい』
『いいえ、こちらこそご馳走になってしまって・・・兄の話も聞けて、良かったです』
『とりとめのない話を聞いてくれて、ありがとう。じゃあ・・・』
理人はしっかりと頭を下げ、それでは失礼します、と言って踵を返した。
まだ何か言いたげな黒瀬の瞳は見なかったことにして、歩き出した。
風が強く、マフラーを巻き直した。時刻は23時を過ぎていた。
数分も歩かないうちに、駆け寄る足音が近づいてきて、腕を掴まれた。
振り返ったそこに、息を切らした黒瀬が立っていた。
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