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嫉妬
「ふあ~・・・怖っ・・・」
自動販売機のボタンを押して、慧は大きなため息を漏らした。
(なんだあの怖い感じ・・・そもそも何で俺呼ばれた?)
資料の中身は詳しく知らされていないが、紙の大きさからして処方箋だろうと思われた。
でも薬剤部でもない杉山に届ける理由も慧には分からないし、おまけに黒瀬がいるなんて思いも寄らない展開にただ焦るだけだった。
黒瀬の敵意に満ちた視線にすくんだ恐怖から、まだ抜けきれないでいた。
自動販売機の電子音が鳴った。
小さな取り出し口から漂うコーヒーの香りで、慧は少し落ち着きを取り戻した。
医局を出て15分が経っていた。
(ちょっと落ち着いた。そろそろ戻らないと・・・)
一口飲んで、それを持ったまま、エレベーターホールに向かった。
「下がる」ボタンを押すと、そう待たずにランプが付きドアが開いた。
慧は空の箱に乗り込み、1Fを押すと、エレベーターは静かに降下を始めた。
杉山に呼ばれた医局は西棟の8F。
薬剤部は東棟の1F、外来の奥に位置していた。
エレベーターは6Fで止まった。西棟6Fには、製剤室や在庫管理室があり、薬剤部の人間も出入りすることが多い場所だった。
自動ドアが開いた。慧は顔を上げた。
そこに、理人が入ってきた。
慧は、コーヒーの紙コップを取り落とさないように、手に力を入れた。
理人は、慧を一瞥しただけで、すぐに「閉じる」ボタンを押した。
(何このタイミング・・・)
理人は、在庫らしき箱を持っていた。足りなくなったものを取りに来ただけだろうと想像できたが、慧は、言葉にしがたい緊張感に全身が硬直した。
(この間のこと、謝った方がいいよな、とりあえず・・・)
慧は横目で理人を盗み見た。いつもより、表情が堅い。機嫌が悪い、とも取れる顔をしていた。
それでも慧は思い切って声をかけようと、口を開いた。
「あの、長谷川さ・・・」
「杉山准教授に呼ばれたんだって?」
慧の声は、理人の声にかき消された。驚いた慧を、理人は責めるように見ていた。
「は・・・はい、今、行ってきたところで・・・」
「・・・うして・・・」
「えっ?」
ぼそりと呟いた声が聞き取れず、慧は聞き返したが、理人から返事は無かった。その冷たい横顔は、これ以上は何も話すことはないと言わんばかりの空気を纏っていた。
慧は、覚悟を決めて、仕切り直しにかかった。
「あのっ、この間は、すみませんでした!」
勢いよく頭を下げた慧を、無表情に見下ろし、理人は言った。
「この間・・・?」
「い、居酒屋で・・」
「・・・ああ。そうだったね。忘れてた」
(忘れてた?)
あまりにも抑揚のない声に、慧は思わず顔を上げた。理人は抑揚が無いどころか、感情すらないといった様子でもはや前を見ていた。
(こっちはずっと気になってたっていうのに、忘れたとか、マジで・・)
苛立ちが生じて、慧はコーヒーを持つ手に更に力が入った。
「・・・腹が立つ?」
理人が聞いた。びくっと、慧の身体が弾んだ。
「・・・いえ、プライベートなこと聞いたのはこっちなんで」
「そう?気になってたんだろ?そういう顔してるよ」
「・・・・・」
「萩野くん」
静かに降下し続けるエレベーターの中で、理人が慧に近づいた。
縁のない眼鏡を外し、壁に片手をついて慧に顔を近づけて、理人は言った。
「僕は・・・覚えていられないんだ。僕にとって大事なこと以外は」
慧の瞳を見つめてくる理人は、薬剤部で働く理人とは別人に見えた。
黒瀬の名前を携帯で見せてきた時の、どこか淫靡な、背徳感を楽しむような顔と、同じだった。
硬直する慧と理人の背後で、エレベーターの到着を知らせる音が聞こえた。
4Fだった。
「だから・・・ごめんね」
ドアが開くのと同時に理人はそう言って、慧から離れ、エレベーターを降りた。
白衣の裾を翻し、4Fのフロアに降り立った理人の横顔は何か、もしくは誰かを見つけて、急に和らいだ。
今までとは別人のような柔らかな表情の理人の横顔に、白衣の袖から伸びた大きな手が今にも触れようとしているのが、閉まりかけたエレベーターの扉の隙間から見えた。
扉が閉じる直前、理人の意味深な視線が、慧を捕らえた。
4Fは、黒瀬教授の研究室のある階だった。
「どうして・・・あれは僕の仕事のはずです」
「ちょっとしたお遊びだ。目くじらをたてるようなことか?」
「だって、あれは特別な・・・」
「・・・嫉妬か。醜いな」
黒瀬の楽しむような口調に、理人の表情が変わった。
「嫉妬しているのは・・・あなたじゃないんですか」
「・・・何だと?」
「この間、僕が彼の名前を出したから・・・」
「自惚れるな」
黒瀬の大きい手が、理人の髪を掴み、力ずくで顔を上向かせた。
苦しそうな理人を間近で睨み、黒瀬は吐き捨てた。
「いつからそんなことを言うようになった?」
「・・・・・」
髪を握られたまま、理人は黒瀬に唇を強く吸われた。舌が割り込み、理人の口の中を乱暴に犯す。喘ぎ声すら上げられず、理人は黒瀬の背中に爪を立てた。
黒瀬は掴んだ髪を、急に優しく撫でたかと思うと、理人を突き放すようにして押し除け、教授室を出ていった。
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