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序章【椿】
雪が降っている。
目を閉じていても分かるほどに。柔らかく、されど確実な重みをもったそれが、己の身体を包み込んでいる。目を開けて確認しようとしても、何故だか全く瞼が持ち上がらない。やがてゆっくりと開かれた眼には、確かに雪が映り込んだ。しかし、それは自分が知る雪とは少し違っていた。薄紅色から深紅まで、様々な赤の濃淡を織り交ぜたそれが、己の身体に降り積もっている。空から降る雪は白く、透明で、どうやらそんな紅い雪はここに積もるものだけらしい。まばらに散る紅は酷く鮮烈で、まるで椿の花弁のようだ。
雪が降っている。
暫く紅に包まれていると、視界に小さな人影が入り込んだ。徐々に大きくなるそれは此方へと歩を進めているようで、雪のせいで霞がかった視界ではそれがどんな人物であるのか見当もつかなかった。やがて目の前に現れた草鞋は音もたてずに静止したが、見覚えのない風体だった。がっしりとした太い脚は、記憶の中の父親を連想させる。これほど雪が積もっているのに、なぜ足音も立てずに歩んでこれたのだろう。雪と紅、そして草鞋だけが世界を構成していて、それ以外は何一つ感じることができなかった。
“ 願いを聞き入れよう ”
しわがれた老爺のような声が、静かな世界に響き渡った。か細く、しかし重みを帯びた声は、とても人間が発したものとは思えない。
“ ただし、代償を支払わなければならない
死よりも過酷な道だとしても、大切なものを守ることがお前にはできるのか
化け物と紛う覚悟はあるか ”
ふと、目が焼き付くようなあたたかさ感じた。じわじわと染みるように溢れだし、目の間を流れていく。まるで水の中を漂っているかのような、心地よい感覚に身を任せた。
“ ならばお前に与えよう
その心が蝕まれぬよう、代償を取り戻すことは許されない
そのときは破壊を望め ”
雪が降っている。
雪に埋もれて、視界が遮られていく。草鞋の主はまた、音もたてずに去って行ってしまったようだ。強い眠気が身体を襲い、逆らわずにまた目を閉じた。身体はまだ動かない。あれだけ雪が降っているというのに、身体はぬるま湯に浸かっているかのようで、心地よい浮遊感に身を任せた。
そこでようやく少女は、周りに浮かぶ紅い花弁が、自分の血潮であることを知ったのだ。
❀❀❀
いつの時代のどこの国の話か、てんで思い出せやしませんが。あるところに、〝逢魔(おうま)〟と呼ばれる化け物が蔓延る時代があったそうな。姿形はどいつもばらばら。人を喰い散らかしては呪いをかけ、人々を不幸に陥れるなんとも恐ろしいその化け物に、人々は抵抗する術もなく、怯える日々を送っていやした。そんな逢魔から人々の身を守るべく、一人の陰陽師が自らの命と引き換えに何本かの刀に霊力を宿すことに成功しちまった。数多の刀に囲まれた父の亡骸を見た陰陽師の娘は嘆きと怒りに震え、そのうちの一振りを手に取って逢魔を斬りつけたそうな。すると、今までどんな攻撃もてんで効かなかった逢魔が、音を立てて崩れていくじゃあねぇか。その陰陽師が霊力を宿した刀は、選ばれた者にしか振るえやしなかったが、見事に逢魔を滅ぼすことができちまったってわけでさぁ。ところがどっこい、最愛の父親を亡くした娘の嘆きは、そんなもんじゃあ鎮まらねえ。嘆きと怒りに心を呑まれちまった娘は、とうとう逢魔みてえな化け物になっちまいやがった。逢魔に紛れて次々と人を襲う娘を見かねて、父親を継いで陰陽師になった娘の弟は、姉を刀へと封印することを決意しやして。皮肉なことに、娘が逢魔を斬った刀に封印されちまったんでさぁ。
それから数百年の年月が流れ、逢魔なんて化け物の存在は誰にも知られなくなっちまった。
だが、今からこの老いぼれが語るのは、そんな時代に生まれちまった美しい少女の悲劇の物語。
さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
椿が一輪、落ちてくぜ。
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