26人が本棚に入れています
本棚に追加
/210ページ
「…………」
廊下は、気が遠くなるほどに静かだった。
巫女の部屋付近は、用でもない限り誰も近寄らない。神にも等しいという価値観が、自然と足を遠のかせてしまうのだ。
(……まさか、本当に直そうとするとはね)
敬語のことは、ただの気まぐれだった。
前々からぼんやり感じていたことを、あの時、なんとなく言葉にしようと思っただけだ。けして意地でも直してほしいわけではない。
それでも嬉しかった。
私がふと零した一言を、あんなにも懸命に拾ってくれたことが。
だからこそ、今は葉月の傍にはいられない。葉月の変化に、そして葉月の言葉に動揺していることを知られたくないから。
葉月にとって、自分の変化で人をがんじがらめにしてしまうことは、死ぬ以上に耐え難い苦痛だと知ったから。
『死にたくはないけど、桜さんがそれを望むなら……仕方ないかな』
朗らかに笑いながら言う台詞じゃなかった。
そして葉月には、相手をからかうためにそんな冗談を言う器用さはない。
あの言葉は、紛れもない本心だ。
思えば、彼はずっとそうだった。
刺された時も、社町の住人に襲われた時も、そして会議の時も、常に私の命を優先してきた。自分の命すら差し出しかねない勢いで。
葉月は、自分に対する執着が恐ろしく薄い。
いつ死ぬか分からない環境に置かれていたからなのか、別のところに要因があるのかは分からないけど、確かなことが一つある。
葉月の中で私は、自分の感情や命よりも優先すべき存在となっている。
(……駄目だ)
今のままでは、葉月は自ら死を受け入れる。私が望んだからというだけで、なんの抵抗もすることなく、笑って――。
そんなのは、人間じゃない。ただの奴隷だ。
たとえ巫女になろうとも、葉月は人間だ。人として、自分のために生きる権利がある。魂まで血まみれの鬼である私と違って。
(そう、私は――鬼だ)
鬼である私はいつか、彼から人としての権利を奪うだろう。
夜長姫を蘇らせるわけにはいかない。あの子と同じ絶望で、葉月に壊れてほしくない。そんな身勝手かつ独善的な想いで。
鬼である私の刃を、よりによって葉月が笑って受け入れてしまうなんて、そんな理不尽なことがあっていいはずないのだ。
だから、私は――――
「あれ?」
背後から声がかかり、足を止めて振り返る。
「あぁ。やはり、あなたでしたか」
線が細いのに、深みのある声色。
相手に安心感をもたらす、丁寧な所作。
器用かつ穏やかなその人柄から、社の者たちがこぞって頼りにする存在。
そして二ヶ月間、社から遠ざかっていた男。
「菜飯……」
「お久しぶりです、桜さん」
物腰柔らかな笑みが、私を静かに捉えた。
最初のコメントを投稿しよう!