第十四話「花曇り ーはなぐもりー」 (後編)

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「…………」  廊下は、気が遠くなるほどに静かだった。  巫女の部屋付近は、用でもない限り誰も近寄らない。神にも等しいという価値観が、自然と足を遠のかせてしまうのだ。 (……まさか、本当に直そうとするとはね)  敬語のことは、ただの気まぐれだった。  前々からぼんやり感じていたことを、あの時、なんとなく言葉にしようと思っただけだ。けして意地でも直してほしいわけではない。  それでも嬉しかった。  私がふと零した一言を、あんなにも懸命に拾ってくれたことが。  だからこそ、今は葉月の傍にはいられない。葉月の変化に、そして葉月の言葉に動揺していることを知られたくないから。  葉月にとって、自分の変化で人をがんじがらめにしてしまうことは、死ぬ以上に耐え難い苦痛だと知ったから。 『死にたくはないけど、桜さんがそれを望むなら……仕方ないかな』  朗らかに笑いながら言う台詞じゃなかった。  そして葉月には、相手をからかうためにそんな冗談を言う器用さはない。  あの言葉は、紛れもない本心だ。  思えば、彼はずっとそうだった。  刺された時も、社町の住人に襲われた時も、そして会議の時も、常に私の命を優先してきた。自分の命すら差し出しかねない勢いで。  葉月は、自分に対する執着が恐ろしく薄い。  いつ死ぬか分からない環境に置かれていたからなのか、別のところに要因があるのかは分からないけど、確かなことが一つある。  葉月の中で私は、自分の感情や命よりも優先すべき存在となっている。 (……駄目だ)  今のままでは、葉月は自ら死を受け入れる。私が望んだからというだけで、なんの抵抗もすることなく、笑って――。  そんなのは、人間じゃない。ただの奴隷だ。  たとえ巫女になろうとも、葉月は人間だ。人として、自分のために生きる権利がある。魂まで血まみれの鬼である私と違って。 (そう、私は――鬼だ)  鬼である私はいつか、彼から人としての権利を奪うだろう。  夜長姫を蘇らせるわけにはいかない。()()()と同じ絶望で、葉月に壊れてほしくない。そんな身勝手かつ独善的な想いで。  鬼である私の刃を、よりによって葉月が笑って受け入れてしまうなんて、そんな理不尽なことがあっていいはずないのだ。  だから、私は―――― 「あれ?」  背後から声がかかり、足を止めて振り返る。 「あぁ。やはり、あなたでしたか」  線が細いのに、深みのある声色。  相手に安心感をもたらす、丁寧な所作。  器用かつ穏やかなその人柄から、社の者たちがこぞって頼りにする存在。  そして二ヶ月間、社から遠ざかっていた男。 「()(めし)……」 「お久しぶりです、桜さん」  物腰柔らかな笑みが、私を静かに(とら)えた。
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