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乙女は乱れた島田の髪を直しつつ、龍馬に木刀を差し出してきた。どうやら、家から持ち出してきたらしい。
龍馬と姉・乙女とは三歳しか離れていないが、乙女は龍馬がいうところの「はちきん(男勝り)」で、足相撲では龍馬は乙女に勝ったことがなかった。そんな乙女を龍馬も「嫁の貰い手がいないのではないか?」と心配していたが、典医・岡上樹庵と夫婦になることになったらしい。
「なんじゃ? うちとやるのは不服か? 龍馬」
「……そういうわけじゃないが、いくら義兄やんが医者じゃからっち、痣を作るのもどうかと思うての」
「ふん! うちに勝ってからほえちょれ(騒げ)。それにうちの旦那さまは、そればあ(その程度)では唾でもつけちょきというじゃろ」
さすがは乙女を妻とする男の台詞だが、夫婦になっても喧嘩はするだろう。はたしてこの乙女相手に、義兄・岡上樹庵はどう対抗するのか。
(想像するのが怖いっちゃ……)
「さあ! かかってきいや!!」
乙女は不敵な笑みを浮かべて、ビシッと木刀を龍馬の前に突き出してきた。どうやら、本気にさせてしまったらしい。
カンカン――。
鏡川の川辺に、木刀のぶつかる音が響く。
「いい加減に……降参しいや! 龍馬」
乙女は握る木刀に力を込め、龍馬の木刀を押してくる。お仁王さまと知られた彼女でも、息が上がっている。
「乙女姉こそ……、無理しちょらんでええきに」
負けず嫌いな二人だけに、力が互角となるとなかなか勝負はつかない。もちろん、龍馬がもう少し本気になればどうなるかわからないが、相手は女性であり実の姉である。
「何しちゅう!! おまんらっ」
戻ってこない二人に業を煮やした兄・権平がやって来て、勝負は引き分けに終わった。
「……ったく、たいがいにしいや。乙女、おまんは嫁ぐ身がぞ。ちいっとは慎め」
権平の嘆きは何のその、龍馬も乙女も「次は決着つけちゃるきに」と対決姿勢だ。
「はぁ……」
権平が深いため息をついたのは言うまでもない。
「――ほんにどういたらええかの(本当にどうしたらいいのか)」
夜――布団に寝込んだ龍馬は、薄暗い天井に向かって呟いた。
黒船来航から、いろいろなことが起きすぎた。
龍馬も龍馬で、浦賀で出会った佐久間象山に西洋砲術を学ぶべく門を叩いたが――。
「そのセンセは、いまだ牢の中じゃ」
何でも嘗ての塾生・吉田寅次郎が異国船に密航を企てたそうだ。象山は前もって相談されていたらしいが、ここで止めればよかったものの、同罪と見なされて今も伝馬町牢屋敷の中である。
そんな時――。
カタカタ……。
「なんじゃ?」
妙な音が家からしている。家鳴りなら昔からよくあったが、それとは違う。
カタカタカタカタ……。
音は、部屋に置かれたあらゆるものから鳴り始めた。
龍馬が枕元の刀を掴んだ途端、その身体が畳ごとグラッと揺さぶられた。地震である。
「ちよ、ちよい待ちぃや!」
嘉永七年十一月三日――、土佐を含む南海地方を巨大地震が襲った。世にいう、安政東海地震である
◆◇◆
十一月ともなると江戸の町も寒風が吹き、天下泰平の世まで吹き飛ばされてしまいそうである。
江戸城・本丸の待機所で、男は垂れてくる洟を何度か懐紙で拭った。
寒い。とにかく寒い。
丸に剣花菱という家紋を纏う羽織に染めて、男は老中との面会を待ち続けた。髪は昨今流行りの総髪に髷は銀杏、登城する諸大名や旗本に比べれば些か風変わりだったが、彼もまた旗本にである。
(おいらだってね、そんなに暇じゃねぇんだ)
最初は大人しく待っていたが、一刻も待たされている上にこうも寒いと、愚痴も出る。
そしてようやく、筆頭老中・阿部正弘の顔を拝することができたのはそれからさらに半時後のことであった。
「――安房守、火急の用とは何事か?」
「おそれながら、ご老中にもうしあげます。これからこの国に必要なのは、異国に負けない海軍を作ることが肝要かと存じます」
散々待たされて文句でも言おうかと思ったが、男はぐっと飲み込んで低頭した。なれど男の力説に、筆頭老中・阿部正弘はもちろん、同座する面々は一様に渋面だった。上の腰が重いのは今に始まったことではないが、時代が変わりつつあることを、どうもいまいち上は把握しきれていないらしい。
(これだから石頭だってんだ。馬鹿野郎)
「安房守、そちの意見はもっとも至極なれど――」
阿部政弘はそう言って、唸った。
(ああ、金がねぇってことか……)
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