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安房守こと勝麟太郎は、筆頭老中・阿部正弘が言わんとしていることを察した。江戸湾警備と、付随した台場建設に多額の財を注ぎ込んだらしい。
将軍となった徳川家定は病弱で、さらに異国の対応に頭が痛いのは勝にもわかるが、この国も早急に大型軍艦を装備する必要があった。それも異国に習って、蒸気機関の艦を。
(まったく、これじゃいつになるかわからねぇ)
愚痴もついつい江戸弁になる。
勝麟太郎は江戸は本所・亀沢町うまれで、いわゆる下町育ちである。父・小吉もちゃきちゃきの江戸っ子気質だったが、息子である麟太郎も輪をかけたように口が悪い。一度つい、老中に向かって毒を吐き、顰めっ面をされたことがある。
本来ならば無益である勝は江戸城へは登城不可だが「あの勝安房が老中に会いたい」と聞いた筆頭老中・阿部正弘が、特別に呼んだのである。しかし、結果は勝の助言はのらりくらりと交わされて、上の重い腰を上げるには至らなかった。
こんな時、砲術と兵法を学んだ師・佐久間象山がいれば何らかの知恵を拝借できたかも知れないが、伝馬町牢屋敷では訪ねてもいけない。
(なんだって、あんなとこに……生生よ)
しまいには嘆きとなって、勝は内堀で空を仰いだ。
だが――。
これよりほどなくして、筆頭老中・阿部政弘は改革に乗り出すことになる。
大型船建造禁令が解かれ、長崎に海軍伝習所が設立されるのは二年後のことである。
二
砲術家にして蘭学者、佐久間象山の塾生だったのは吉田寅次郎と勝麟太郎の他に、この男も塾生であった。龍馬である。
土佐を襲った巨大地震は幸いにして坂本家に害はなく、龍馬は再び築屋敷町の小栗流道場に通うようになっていた。
そんな築屋敷町に、最近越してきたという絵師がいるという。絵師なら何処にもいるが、その絵師の名を聞いた龍馬は首を傾げた。
「河田小龍……? どこかで聞いたような……」
「なんでも、中濱万次郎を取り調べた絵師だそうじゃが、この間の地震で、邸が住めんようになったがち、越してきたといいゆう」
「そう! それじゃ!」
突然大声を上げた龍馬に驚いたのか、同門の男が飛び退いた。
「な、なんじゃ……? いきなり……」
「万次郎さんじゃ。ジョン万次郎」
「はぁ?」
ジョン万次郎を取り調べたのなら、異国に詳しい筈である。その万次郎は今や、直参に大出世である。
万次郎曰く、そうなれたのは河田小龍という絵師のお陰という。
なんでも河田小龍は、万次郎から聞いた話を書におこし、これが幕閣で評判になったらしい。是非異国に行ったというジョン万次郎から直接話を聞いてみようと、なったようだ。
龍馬の脳裏には、浦賀と品川で見た異国船が浮かんだ。これまで見たことのなかった大型軍艦、帆走以外に蒸気機関という動力、射程距離がこの国の倍があるという西洋式兵器、万次郎から得た情報が正しいのならば、その船のことをもっと知る必要がある。
絵師・河田小龍は小栗流道場からほど近い場所に住んでいた。
年は二十九、桶町千葉道場の千葉重太郎と同年である。
「私に――、会いたいとか?」
「本丁筋の郷士・坂本龍馬というもんですき、無礼は許しとおせ。河田センセ」
「君は坂本乙女どのの弟さんかえ?」
「うちの姉を知っちょるかえ?」
「直接は会ったことがない。御殿医の岡上どのが今度夢を貰うと聞いてな。で、話とは?」
河田小龍は腕を組むと、龍馬が座す方へ向き直った。
「センセはあの万次郎さんから、メリケンのことを聞きゆうが?」
「ほう、あの男と会っちゅうがか。そのとおりじゃ。なかなか面白い話じゃったの。
河田小龍が聞いた話に寄れば、メリケンでは蒸気で動く船、大砲を備えた巨大な軍艦、地上に鉄の道を敷き、その上に沢山の箱をつらねて沢山の人と荷物を積んで何百里も走破する汽車、離れたところから手紙を送る電信(モールス信号)があるという。文が飛脚を使わず届くなど信じられなかったが、メリケンでは届いてしまうらしい。
中でも小龍を一番驚かしたことは、メリケンでは殿さま(大統領)は世襲ではなく入れ札(選挙)によって選ばれるという事だった。
「こん国は、メリケンに比べちょったら遙かに遅れちょる。二百年以上も国を閉ざしている間に、異国は力をつけ進歩しゆう。龍馬くん、君はこの現状どう思うが? 世間では異人を排除し、再び鎖国しちゅうとほえている(騒いでいる)が、わしはそれは違うと思うちょる」
小龍の言葉を、龍馬は否定はしない。
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