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 「テレワークとかしないの?」  妻は子供の服を整理しながらさりげなく聞いた。  「しない。やってる人もいるけど」  僕は嘘をついた。新型ウィルスのオーバーシュートが目前のため、政府は遅ればせながら明日にも緊急事態宣言を発令しようとしていた。そんな中、IT企業で働く私は、特別な事情がないかぎり在宅勤務することが原則となっていたのだ。  「早めに帰ってきてね。私もテレカンとかしながら子供の面倒みるの大変だから」  妻は淡々と言った。あたかも早く帰ってくることなどはなから期待していない、といった言いようだった。  「本当は私が働かなくてもやっていけるくらい経済的に安定してればいいんだけど」  要は僕の稼ぎが少ないということが言いたい、いつもの皮肉だ。しかし妻は結婚する前から僕の年収は知っている。僕はそういうところでは決して嘘はつかない。だから「何をいまさら」と口から出かかるが、そこはぐっと堪える。  今日、僕は前もって会社に休みを申請していた。子供の学校行事のため、という理由だった。  僕は嘘をついた。子供の入学式があるのは事実だったが、ウィルス感染拡大防止のため、親は1人だけの参加に制限され、当然のように妻が参加となっていたのだ。  僕はあたかも普段通りという風に家を出た。すがすがしい青空。ほどよく咲きほこった桜。普段より人がまばらな駅前。がらんとして人気の消えた通勤電車。普段の日常のようで、でもどこか少し違っていた。空席ばかりの通勤電車に乗ったとき、僕はこんな思いにかられた。  「僕は家と会社と両方に嘘をついた。その結果、社会から分断された。どこにも属さない存在になった。僕は時空の狭間を漂っている。僕はどこにも存在しない」
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