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 ふと通りかかった一角の路地に地味なドラッグストアがあった。僕は小学生の娘にマスクを頼まれていたのを思い出した。しかし今はどこにいっても品切れで入荷待ちの状態が続いている。この店にも置いてないだろう。もし売っているなら人だかりができているはずだ。しかし客の姿もない。僕は期待せずに中に入った。  狭い店内にはさまざまな医薬品やドリンクなどが棚積みされている。僕はキョロキョロと店内を物色した。やつれた顔をした細身の女性店員が、誰もいない中でせわしなく一人で働いている。マスクはあるか聞こうと思ったが、ないに決まっているのにあえて話しかける気にはならなかった。  しかし一番奥の棚に回り込むと、そこにはマスクが整然と陳列されていた。あまりに想定外だったのでしばらく気がつかなかったくらいだ。男性用の通常サイズと女性と子供用の小さいサイズのものがそれぞれ並んでいた。入荷したばかりなのだろうか。棚の一角を十分に埋め尽くしている。マスクが棚に並んでいる光景は久しぶりだった。  僕は小さいサイズの方を手にとった。値段は従来よりは高めだが、法外な値段で取り引きされていることもあるこのご時世。それに比べれば良心的な値段だった。ついでに自分の分も買おうと思い通常サイズのものも手にとった。それぞれ一袋7枚入り。この際だからもう少し買っておくか。そう思い手を伸ばしかけたとき、よく見ると「一家族一袋に限ります」と棚に貼り紙がしてあるのに気がついた。買い占めは厳禁ということか。僕は少し戸惑ったが「二袋くらいだったらいいだろう。買い占めるわけじゃない。それに他の客が押し寄せてるわけでもない」と自分で納得するとそのまま二袋を持ってレジに差し出した。  「お客様。一家族一袋となります」  痩せこけた顔の女性店員は事務的な口調でそう言った。  「え?あ〜そうなんですね?そういう仕組みになってるんですね。そうか、知らなかった。一家族一袋か〜」  我ながらしらじらしいリアクションだった。僕はたまに臭い芝居じみたことを平気でしたりする。  「いや、ただ、実はですね。こっちの小さい方はうちの子供に頼まれててですね?で、こっちの大きい方は自分用なんですね?」  「ですから一家族ですよね」  僕は自分の馬鹿正直さを後悔した。しかし僕の演技はまだ続いた。  「あ、違う!ごめんなさい。間違えた。こっちの大きい方は僕の弟家族の分だ!そうそう、間違えた。失礼しました。だから一家族一袋…」  「ですからそういう問題ではなくて、一人一袋にしてくださいということなんです!わかりませんか?そういう身勝手な人は困るんですよ!みんなで協力しあわないと!」  だったら最初から一人一袋と書けばいい。僕はそう言いかかったが、逆上した店員に議論を挑んだところでらちがあかないのは目に見えていた。  「わかりました。じゃこっちで」  僕は小さい方だけ買った。  店を出た僕は不快感でいっぱいだった。  しかし娘はきっと喜んでくれるだろう。僕を正気に保っていたのは唯一その思いだけだった。それだけが救いだった。
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