5/5
前へ
/5ページ
次へ
 帰ると言ったのは嘘だった。  僕は小腹がすいた。近くのコンビニに入りサンドウィッチ、ピーナッツ、そしてビールを買った。飲み始めるにはまだ早い時間だったが、僕は無性に酔いたい気分になっていたのだ。  日差しは穏やかだ。さっき通りかかった喫煙スペースに隣接した広場に戻った。桜もまだ花をつけている。ささやかな花見でもしよう。一人でも十分楽しめるはずだ。僕はそう自分に言い聞かせた。時折り冷たいビル風が吹き抜けるので、なるべく陽のあたるところで座る場所を確保した。  サンドウィッチをほおばりながら思った。ここは荒廃したディストピアとまでは言い難い。かといってテレビドラマのような能天気で楽しげな都会でもない。今はどっちつかずの微妙な空気におおわれていた。  僕は時空の狭間を漂っている。まるですべてがひとごと。自分には何も関係ない。  空は見事なまでに青く、風はおだやかだが冷たい。ただそれだけだ。それだけが事実だった。ただそれだけが時間と空間を満たしていた。  しばらくすると、一羽の鳩が足元に近づいてきた。慣れたもので、コンビニのビニール袋を持った人はきっと何か食べ物を持っているに違いないと察してのことだろう。首を前後に動かしながら、ねだるような眼差しで近寄ってくる。しかしいつでも逃げられる距離感を慎重に測っているようでもあった。少し離れたところに、つがいのような二羽もうろちょろしていた。きっとこの先遣隊がうまくエサにありつけたらすぐに便乗しようと、こちらの様子をうかがっているに違いない。それでも、あたかも自分たちは関係ないというそぶりで地面の塵などをつついていた。  僕はピーナッツを5粒ほど手にとった。案の定、僕の前を行ったりきたりしている一羽は、ピタリと足を止めて、首をかしげながら僕の方をまじまじと見つめていた。  しかしそのとき、「ハトにエサをあげないでください」という近くの看板が目に入った。  僕はエサをあげかかっていた手を引っ込めた。  そしてピーナッツを自分の口に放り込んだ。その様子を見てあきらめたのか、鳩はどこかに飛んでいった。僕は「まあ仕方ない」と思った。  そしてまた別の一羽現れた。びっこをひいている。どうやら片足を怪我しているようだ。歩きづらそうにしながら、懸命にアピールしているように見えた。片足では食べ物の獲得競争も厳しいのだろう。体つきも他の鳩よりもひとまわり小さかった。さすがに同情した僕は、ピーナッツを数個取り出した。少し砕いて食べやすくして、その鳩に投げようとした。しかし直前で思いとどまった。  広場には何人か人もいる。エサをあげるなという看板まである。昼間からフラフラしてビールをあおりながら鳩にエサをあげていたらまた誰かに文句を言われるに違いない。  しかし片足の鳩は僕をじっと見て待っている。  僕はビールを何度か口にした。  そのときだった。ゴーという轟音が鳴り響いた。見上げると上空間近に旅客機が通り過ぎていく。手を伸ばせば届くのではないか。そう思えるほど大きな機体を真下から眺めている。近くの空港の発着陸を増やすために新しく飛行ルートが追加になったのだ。都心の真上をすれすれに通過していく。  広場にいた鳩は爆音に恐れおののき一斉に飛びたっていった。  轟音はビルの谷間に反響し、機体が見えなくなったあとも、いつまでも余韻を残していた。  しばらくすると、広場は何事もなかったかのように、また静寂さを取り戻した。  鳩は姿を消した。片足の鳩もいなくなった。僕は思った。「はやく片足の鳩にエサをあげてやればよかった。なぜ迷わずすぐにあげなかったのか」そんな後悔だけが残っていた。  気がつけば日差しは夕陽に変わりつつある。僕はビールをもう一つ取り出しフタを開けた。夕陽の逆光に舞い散る桜に向かって「乾杯」と小さくつぶやいた。  片手にはビール。そしてもう片方の手には、さっき買った娘用のマスクを持っていた。僕はまたつぶやいた。  「きっと娘は新しいマスクを楽しみに待っている。このビールを飲み終わったら帰ろう」 (了)
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加