《中編》

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《中編》

 久々に実家を訪れた雅人の横には見知らぬ女性がいた。突然の客人に両親が大慌てで客間を片付けるのを手伝いながら俺は兄と共に玄関で待たせている女性を盗み見る。会社の人だろうか、それとも中高の友人だろうか、雅人と小声で何やら話しながらころころと笑う女性ははた目にも可愛らしく、兄ととてもよくお似合いだった。母は部屋の荷物をとりあえず押し入れへと移動させながら「彼女さん連れてくるなら前もって連絡しなさいよ」とぶつぶつ文句をいう。それでもその声音はどことなく嬉しそうに見えた。  雅人がこんな風に両親がいるときに女性を連れてくるのは初めてだった。学生時代に兄が何度か女性を連れ込んでいるのを目撃したことはある。しかしそれは決まって両親が留守のときだ。今までの女性と今玄関にいる女性は何かが違うというのだろうか。  ふと嫌な記憶を思い出す。あれは俺が中学の頃だった。その日たまたま気分が悪くなった俺は学校を早退した。家に帰ると案の定、雅人が誰かを二階の自室へ連れ込んでいた。高校三年の冬から春にかけ、雅人の高校は自由登校となり、学校に行かなくてもいいらしい。雅人はその期間中、親がいない昼間によく受験のストレスを発散するためか、ほぼ毎日のように女性を連れ込んでいた。  中学にもなれば兄が女性を自室に連れ込んで何をしているかなど考えなくてもわかる。兄の部屋の下にあたるリビングのソファに寝転がり、目をつむる。ギシギシときしむ音は兄の部屋のベッドの音なのか、それとも天井の音なのか。耳を澄ませば声や息遣いまで拾ってしまいそうになる。俺は大きなため息をついた。  兄の情事に耳を澄ませて興奮するほど溜まってもいない。自分はかなり性欲が薄いという自覚もあった。自慰も週に数回作業のように風呂場ですれば不都合はなかった。だからその日も兄と誰かの情事の音をぼんやりと聞きながら、日替わりのように変わる雅人の相手に同情の念すら抱いていた。彼らは割り切った関係なのだろうか、それとも相手は雅人がほかにも相手がいることをそもそも知らないのだろうか。どちらにせよ、器用な兄はうまくやっているのだろう。その証拠に今まで女性が家に押し掛けてきたことはないし、兄の悪い噂も外では聞かない。  ふと目を覚ませばすでに日は落ちていた。昼間は電気をつけなくても十分明るかったリビングはすでに薄暗くなっている。さすがに女性も帰っただろうと廊下に出ると、雅人が玄関先で今日の相手を見送っている最中だった。顔を見てしまったのは本当にただの興味本位だった。そしてその後すぐたかが興味本位で顔を上げてしまったことをひどく後悔した。そこにいたのは思い描いていたような豊満なきれいな女性とはかけ離れた、優しくて憧れの兄の幼馴染である男。  突如昼間の記憶がその時より鮮明によみがえる。かすかに漏れる息遣い、濡れた音、ささやく声、激しく軋むベッド・・・。妄想まじりのみだらな情景と今の清廉な男の姿はあまりに似合わない。あまりの衝撃に意識が遠のくような思いがした。「あまり根詰めすぎるなよ」そう気遣うように囁くそれと同じ声で兄を誘うのか。優しく微笑むその唇を兄だけは奪うことができるのか。この時俺は初めて自分の気持ちを自覚する。息が荒ぶるのを抑え込み、気づかれぬようにもう一度リビングへと体を滑り込ませた。  ソファに戻り気持ちを落ち着けるように腰を沈めた。気が荒ぶる、頭に血が上るのを抑えられない。さまざまな感情が入り乱れる中、いちばん大きな割合を占めるのは兄に対する「怒り」だった。 「帰ってたのか、優斗」  リビングへ入ってきた雅人が部屋の電気をつけるや否や、俺は握りしめたこぶしを思いきり兄の顔面に向けて振り上げていた。  許せなかったのだ。雅人が龍也と付き合っていたことではない。雅人が男と付き合っていたからでもない。雅人が「ほかの女と同じように」龍也を抱くことが許せなかった。その他多数と同じように龍也を扱うことが我慢できなかった。  どうして今更こんなことを思い出すのだろう。幸せそうに微笑みあう二人にあの時と同じ嫌な感情があふれそうになるのをなんとかとどめた。
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