矛盾世界 001 おそい朝

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

矛盾世界 001 おそい朝

目が覚めると、そこは天国ともいうべき、美しき世界だった。 耳をくすぐる吐息。芳醇な香り。柔らかそうな、肌の白色。 この美しい景色を見られたということは、その代償として何かがあるということに違いない。これは、僕の約17年という人生の上で学んだことであり、さらに言えば、この世の中の不変の真理としてそこにある。 僕は、その線で模索してみる。 今日の授業は、提出物があるわけではない。 今日注目の番組は、すでに録画済みだ。 色々模索し、色々検索をかけた結果、僕は気付いてしまった。 否、気づいていたのだけれど、あえて無視していたといっていい。 僕はその現実を受け入れたくはなかったのだ。 ちらりと、机の上にある時計を確認すると、8時を過ぎようとしていた。 登校に、少なくとも30分はかかる。始業時間は25分からなので、完全にアウトだ。 僕は、高校生にして初めての寝坊というものをしてしまったらしい。 「君、いつまで睡眠に時間を費やすつもり?」 今僕の上を仁王立ちしている彼女は、猪口未桜(いのぐち みお)先輩。 真っ黒の髪に銀色の補聴器。いつもむすっとした顔で、何を考えているのかはさっぱりだが、時折見せる笑顔が少年のようで、格好良かったりする。 「どうして、先輩がいるんですか?」 というか、どうしてお隣の先輩がうちにいるのだろうか。どうやって? 部屋にある大きな窓は、しっかりと施錠されていた。 次に小さい窓を確認しようとして、やめた。 なぜなら、いくら体躯の小さい先輩であっても、あの小ささは通れない。猫の額くらいの大きさの窓なんぞ、誰が入れようか。 「ああ、それはお兄さんが」 親指で隣の部屋を指す。納得である。 彼―僕の兄貴は、僕と同じ仕事をしている。 『世界管理人』 僕らの仕事は、そんな風に巷で言われている。 この世の中に蔓延る有象無象の不可思議を調査するというと、幾分か真面目な仕事のように見えるかもしれないが―いや、多分見えないだろうけれど―、決してそんな大層なものでもなく、要は怪奇現象の後処理みたいなものをしているのだ。 そして、その仕事を請け負う人々は、この家に住んでいる。 いわゆる、シェアハウスだ。 と言っても、その人数はたった4人であり、僕と兄(教師)、外村(とのむら)うてな(同級生)、佐渡島(さどしま)まどか(担任)なので、全員あの高校に通っている。 「では、どうして先輩は、遅刻ほぼ確定の僕の家まで足を運んでいるのですか?」 「それは、私にとって始業に間に合うことよりも大切なことがあるからだよ」 臆面もなくそんなことを言える先輩を、僕は心から尊敬する。 4月26日。入学式も始業式もその他もろもろ終わり、特にやることもなくなったころ。 僕―つまり、瀬川十哉(せがわとおや)は、今日もまた学校へと向かっていた。 高校2年となれば、もう進路について考えなければならないそうで、だからと言ってやりたいことも特になかった僕は、今日もまた憂鬱に歩いていたのだった。 「そんなに嫌なら、学校なんか行かなければいいのに」 小柄である彼女は、高校3年生である。 つまり、今年は受験の年なのだ。 まあ、彼女にとって入試というのは小テスト並みに緩いらしいが。 噂によると、大学のとある研究所からオファーがかかっているらしい。 「そういうわけにもいかないんですよ。僕みたいな凡人は」 「ふーん。まあ、来てくれるのなら、私は凡人だろうと何だろうとかまわないけれど」 先輩はぽつりとそう呟いた。 いつの間にか耳にこびりついて離れないゴミ収集車の音楽が、僕らの02GMとして、ゆったりと流れる。 「先輩は」 「未桜でいい」 いくらなんでも出会って1年の間で―しかも、一年先輩で―その呼び方はできない。 僕は、それくらいの小心者だ。 「未桜先輩は」 むすっとした。 「未桜先輩は、どこに行くんですか?」 先輩は、半分面倒そうに、半分呆れたように答えた。 「そうね。近くの大学かしらね。そこに行けば、とうやとも遊べるし」 「そうですか」 「何よ。嫌なの?」 「いえいえ、恐悦至極にございますよ」 「心籠ってない」 「込めまくりですよ」 通学路の中で、最も景色が良いと思うのは、今歩くこの大橋だと思う。 この学校は、2つの大きな河川の間に形成された三角州の上に建っており、登校するためにはどちらか一つは必ず橋を渡らなければならない。そのため、学生は『東大橋』と『西大橋』を渡るのだが、僕らが渡る『東大橋』から見える景色は、『西大橋』よりも美しいと思う。 もしかすると、地元民だからという意見もあるかもしれない。地元愛が特段強いわけでもない僕だけれど、無意識のうちに愛している可能性だってある。 しかし、去年引っ越してきたばかりの先輩もまた、「この景色、いいよね」と言っているのだから、やっぱり東大橋の方が綺麗なのだ。 誰に、何を張り合っているのかは知らないが、とにかくそういうルートをいつも歩いている。 ちなみに、この三角州に浮かぶ島のような存在には、この学校しかないため、2つの橋を使うのは、この学校に通う学生と先生方だけである。 たわいもない言葉のキャッチボールを唐突に切り上げたのは先輩だった。 「あのさ、瀬川」 「どうしたんですか、改まって」 「私達って、カップルとかそういうのではないよね?」 「当たり前じゃないですか」 僕と先輩は、付き合わない。 それこそまさに不変の真理であり、太陽が東に沈み始めるほどありえない話である。 「なら、平気か」 空を見上げる先輩を見て、僕はこの前のことを思い出していた。 最近、僕は兄貴と共に調査に出ている。そのために今日は遅刻しているのだが、まあそれは置いておくとして、とにかく僕らは仕事をしていた。 具体的には事故である。 不思議不可思議不可解案件というのは、事件よりも事故の方が圧倒的に多い。まあ、事故が実は事件でしたということもないことは無いが、基本的には怪奇現象が介入して事故を引き起こしている。 最近、巷では不思議な事故が多数起きている。それを調査していた。その不思議というのが、事故を起こした車には、全てカップルで乗車しているということだった。 カップル。カップリング。 「そういえば、先輩。この前、新刊が欲しいとか言ってましたよね?」 「そんなこと言ったかしら」 「言ってましたよ。ほら、あのBLの」 「あー、言ったわね。てか、そんな大きな声で言わなくても」 先輩の声は、車の走行音で掻き消されてしまう。 「先輩の声が小さいんですよ。で、それなんですけど」 「どうしたの?」 「これですか?」 瞬間。先輩の足は止まった。目が散瞳し、頬が紅潮し、口が閉まらなくなった。右手の人差し指を僕に突き出し、体が震え始めていた。 「……どうやったの、それ」 「え、ええと」 「だって、明日発売なのよ?」 「それは」 作者が友達だなんて、言えない。 僕の少ない友達に、BL作家がいる。というか、LGBT作家と言った方が良いのかもしれない。そいつは、先輩とは真逆の容貌で、高身長で男の子っぽい。ショートカットが似合う彼女は、学校では僕と同じはじっこ勢だったりする。 「本屋特権でしょうか」 「あなたの家、本屋じゃないでしょ」 母親がサラリーマンで、父親が専業主夫の家庭です。 「とにかく、良いじゃないですか」 「むぅ。でも、これもらってもいいのかしら」 先輩は、自らとの禅問答を始めた。 「……やっぱりいいわ。ちゃんと自分で買う」 勉強に関して色々破天荒な先輩だが、こういうところは本当に尊敬できる。 「……それに、今回の事案も何となくわかったし」 「事案、ですか?」 「そうね、大体1週間前ってとこかしら。それくらいから、君学校来なかったでしょ?」 「確かに」 4月15日。僕は、別世界にいた。 「その時、君は何か事件に巻き込まれた。そして、その人がこれを描いたってこと。つまり、君はこの作者と友達になったということだ」 その解は違ったりする。友達になったわけではない。 知り合いになったくらいだ。 それくらいの、関係なのだ。 「ええ、そうですよ。さすが先輩。黙っていてもわかっちゃうものなんですね」 「じゃあ、聞かせなさいよ」 「……へ?」 「だから、聞かせなさいって。今からじゃなくていいから。そうね。放課後、図書室の隣のフリースペースで」 そう言うと、先輩はそそくさと歩いていってしまった。 「あれ、もう校門だったのか」 先輩と話すと、いつも時間を忘れてしまう。まるで、時間を操られているようなそんな感覚に襲われてしまう。 ……何を馬鹿なことを言っているんだ。単純に先輩が好きなだけだろう。 「一限目何だっけな」 下駄箱の扉に手をかけたところで、後ろからの気配がした。 こういう時は、大抵頬を突くような悪戯をされる。 肩をとんとんと叩かれたので、叩かれた右ではなく左の方から振り返った。 「引っかかった」 無意味だった。 「爪伸びました?」 「そうかもしんない」 「痛いです」 「知ってる」 楽しそうに僕を嘲笑う彼女が、今回の女の子だったりする。 子村明奈。 高身長。ショートカット。キリっとした瞳。扇情的なハスキーボイス。やることが少年のそれ。普段はしゃべらない、はじっこ勢。そして、BL作家。 「どうして僕の周りは声の小さい奴が多いのか」 他の高校に通ったことがないので、小中学校の記憶と比較しなければならないが、普通小中学校の時の方がうるさいはずなのに、この学校はそれを優に超えるほどうるさい。 「違うよ。君は、そういう風に世界を構築しているだけだよ」 それは、僕の世界が反響しやすいということなのかもしれないが。 反響。反芻。反復。 それが、僕の世界。 「聞きたくない言葉だけが響いて、本当に欲しい言葉は慎重に扱い過ぎて消えてしまう」 彼女の台詞に、反論の余地は一つもなかった。 「だから君は、私を見つけてくれた。そんな君だから、私は君と」 そう言って。 彼女は教室に入っていった。 「なんだよ、それ」 彼女の席と僕の席は、見事に真逆の位置にあり、普段から話すことは無いのだけれど、そんな僕に親近感を覚えていた。 客観的に考えれば失礼なことこの上ない。 「でもまあ、俺とは違って、人気はあるんだよなぁ」 僕の周りの席は、残念ながら女子ばかり―しかも、相容れないタイプ―で、だから僕は寝たふりをするしかないのだが、その時に聞こえる会話はいつも彼女のことだった。 「何を聞いているんだ、僕は」 相当気持ち悪いところが発揮されたところで、僕は思い出していた。 『人は皆、一つくらいは世界を持つ。誰もがその世界の創造主で、この地球の上に世界をぶつけ合っている。常識って言うのは大多数の人間が作った世界の、言ってしまえば共通点だよ。つまり、正解も不正解もない。たまたまそういう世界だった、それだけさ』 専門家―兄の言葉。 自分が産み出した世界。共存共栄するのが当たり前とされる、むしろ弾圧するのが普通とされるこの世の中で、彼女は自ら産んだ世界に飲み込まれそうになった。 『だから、産まれた世界も、壊せないんだ。何かに置換することでしか、解決方法はない』 その言葉の冷淡さを、未だに僕は覚えている。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!