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矛盾世界 001 おそい朝
目が覚めると、そこは天国ともいうべき、美しき世界だった。
耳をくすぐる吐息。芳醇な香り。柔らかそうな、肌の白色。
この美しい景色を見られたということは、その代償として何かがあるということに違いない。これは、僕の約17年という人生の上で学んだことであり、さらに言えば、この世の中の不変の真理としてそこにある。
僕は、その線で模索してみる。
今日の授業は、提出物があるわけではない。
今日注目の番組は、すでに録画済みだ。
色々模索し、色々検索をかけた結果、僕は気付いてしまった。
否、気づいていたのだけれど、あえて無視していたといっていい。
僕はその現実を受け入れたくはなかったのだ。
ちらりと、机の上にある時計を確認すると、8時を過ぎようとしていた。
登校に、少なくとも30分はかかる。始業時間は25分からなので、完全にアウトだ。
僕は、高校生にして初めての寝坊というものをしてしまったらしい。
「君、いつまで睡眠に時間を費やすつもり?」
今僕の上を仁王立ちしている彼女は、猪口未桜先輩。
真っ黒の髪に銀色の補聴器。いつもむすっとした顔で、何を考えているのかはさっぱりだが、時折見せる笑顔が少年のようで、格好良かったりする。
「どうして、先輩がいるんですか?」
というか、どうしてお隣の先輩がうちにいるのだろうか。どうやって?
部屋にある大きな窓は、しっかりと施錠されていた。
次に小さい窓を確認しようとして、やめた。
なぜなら、いくら体躯の小さい先輩であっても、あの小ささは通れない。猫の額くらいの大きさの窓なんぞ、誰が入れようか。
「ああ、それはお兄さんが」
親指で隣の部屋を指す。納得である。
彼―僕の兄貴は、僕と同じ仕事をしている。
『世界管理人』
僕らの仕事は、そんな風に巷で言われている。
この世の中に蔓延る有象無象の不可思議を調査するというと、幾分か真面目な仕事のように見えるかもしれないが―いや、多分見えないだろうけれど―、決してそんな大層なものでもなく、要は怪奇現象の後処理みたいなものをしているのだ。
そして、その仕事を請け負う人々は、この家に住んでいる。
いわゆる、シェアハウスだ。
と言っても、その人数はたった4人であり、僕と兄(教師)、外村うてな(同級生)、佐渡島まどか(担任)なので、全員あの高校に通っている。
「では、どうして先輩は、遅刻ほぼ確定の僕の家まで足を運んでいるのですか?」
「それは、私にとって始業に間に合うことよりも大切なことがあるからだよ」
臆面もなくそんなことを言える先輩を、僕は心から尊敬する。
4月26日。入学式も始業式もその他もろもろ終わり、特にやることもなくなったころ。
僕―つまり、瀬川十哉は、今日もまた学校へと向かっていた。
高校2年となれば、もう進路について考えなければならないそうで、だからと言ってやりたいことも特になかった僕は、今日もまた憂鬱に歩いていたのだった。
「そんなに嫌なら、学校なんか行かなければいいのに」
小柄である彼女は、高校3年生である。
つまり、今年は受験の年なのだ。
まあ、彼女にとって入試というのは小テスト並みに緩いらしいが。
噂によると、大学のとある研究所からオファーがかかっているらしい。
「そういうわけにもいかないんですよ。僕みたいな凡人は」
「ふーん。まあ、来てくれるのなら、私は凡人だろうと何だろうとかまわないけれど」
先輩はぽつりとそう呟いた。
いつの間にか耳にこびりついて離れないゴミ収集車の音楽が、僕らの02GMとして、ゆったりと流れる。
「先輩は」
「未桜でいい」
いくらなんでも出会って1年の間で―しかも、一年先輩で―その呼び方はできない。
僕は、それくらいの小心者だ。
「未桜先輩は」
むすっとした。
「未桜先輩は、どこに行くんですか?」
先輩は、半分面倒そうに、半分呆れたように答えた。
「そうね。近くの大学かしらね。そこに行けば、とうやとも遊べるし」
「そうですか」
「何よ。嫌なの?」
「いえいえ、恐悦至極にございますよ」
「心籠ってない」
「込めまくりですよ」
通学路の中で、最も景色が良いと思うのは、今歩くこの大橋だと思う。
この学校は、2つの大きな河川の間に形成された三角州の上に建っており、登校するためにはどちらか一つは必ず橋を渡らなければならない。そのため、学生は『東大橋』と『西大橋』を渡るのだが、僕らが渡る『東大橋』から見える景色は、『西大橋』よりも美しいと思う。
もしかすると、地元民だからという意見もあるかもしれない。地元愛が特段強いわけでもない僕だけれど、無意識のうちに愛している可能性だってある。
しかし、去年引っ越してきたばかりの先輩もまた、「この景色、いいよね」と言っているのだから、やっぱり東大橋の方が綺麗なのだ。
誰に、何を張り合っているのかは知らないが、とにかくそういうルートをいつも歩いている。
ちなみに、この三角州に浮かぶ島のような存在には、この学校しかないため、2つの橋を使うのは、この学校に通う学生と先生方だけである。
たわいもない言葉のキャッチボールを唐突に切り上げたのは先輩だった。
「あのさ、瀬川」
「どうしたんですか、改まって」
「私達って、カップルとかそういうのではないよね?」
「当たり前じゃないですか」
僕と先輩は、付き合わない。
それこそまさに不変の真理であり、太陽が東に沈み始めるほどありえない話である。
「なら、平気か」
空を見上げる先輩を見て、僕はこの前のことを思い出していた。
最近、僕は兄貴と共に調査に出ている。そのために今日は遅刻しているのだが、まあそれは置いておくとして、とにかく僕らは仕事をしていた。
具体的には事故である。
不思議不可思議不可解案件というのは、事件よりも事故の方が圧倒的に多い。まあ、事故が実は事件でしたということもないことは無いが、基本的には怪奇現象が介入して事故を引き起こしている。
最近、巷では不思議な事故が多数起きている。それを調査していた。その不思議というのが、事故を起こした車には、全てカップルで乗車しているということだった。
カップル。カップリング。
「そういえば、先輩。この前、新刊が欲しいとか言ってましたよね?」
「そんなこと言ったかしら」
「言ってましたよ。ほら、あのBLの」
「あー、言ったわね。てか、そんな大きな声で言わなくても」
先輩の声は、車の走行音で掻き消されてしまう。
「先輩の声が小さいんですよ。で、それなんですけど」
「どうしたの?」
「これですか?」
瞬間。先輩の足は止まった。目が散瞳し、頬が紅潮し、口が閉まらなくなった。右手の人差し指を僕に突き出し、体が震え始めていた。
「……どうやったの、それ」
「え、ええと」
「だって、明日発売なのよ?」
「それは」
作者が友達だなんて、言えない。
僕の少ない友達に、BL作家がいる。というか、LGBT作家と言った方が良いのかもしれない。そいつは、先輩とは真逆の容貌で、高身長で男の子っぽい。ショートカットが似合う彼女は、学校では僕と同じはじっこ勢だったりする。
「本屋特権でしょうか」
「あなたの家、本屋じゃないでしょ」
母親がサラリーマンで、父親が専業主夫の家庭です。
「とにかく、良いじゃないですか」
「むぅ。でも、これもらってもいいのかしら」
先輩は、自らとの禅問答を始めた。
「……やっぱりいいわ。ちゃんと自分で買う」
勉強に関して色々破天荒な先輩だが、こういうところは本当に尊敬できる。
「……それに、今回の事案も何となくわかったし」
「事案、ですか?」
「そうね、大体1週間前ってとこかしら。それくらいから、君学校来なかったでしょ?」
「確かに」
4月15日。僕は、別世界にいた。
「その時、君は何か事件に巻き込まれた。そして、その人がこれを描いたってこと。つまり、君はこの作者と友達になったということだ」
その解は違ったりする。友達になったわけではない。
知り合いになったくらいだ。
それくらいの、関係なのだ。
「ええ、そうですよ。さすが先輩。黙っていてもわかっちゃうものなんですね」
「じゃあ、聞かせなさいよ」
「……へ?」
「だから、聞かせなさいって。今からじゃなくていいから。そうね。放課後、図書室の隣のフリースペースで」
そう言うと、先輩はそそくさと歩いていってしまった。
「あれ、もう校門だったのか」
先輩と話すと、いつも時間を忘れてしまう。まるで、時間を操られているようなそんな感覚に襲われてしまう。
……何を馬鹿なことを言っているんだ。単純に先輩が好きなだけだろう。
「一限目何だっけな」
下駄箱の扉に手をかけたところで、後ろからの気配がした。
こういう時は、大抵頬を突くような悪戯をされる。
肩をとんとんと叩かれたので、叩かれた右ではなく左の方から振り返った。
「引っかかった」
無意味だった。
「爪伸びました?」
「そうかもしんない」
「痛いです」
「知ってる」
楽しそうに僕を嘲笑う彼女が、今回の女の子だったりする。
子村明奈。
高身長。ショートカット。キリっとした瞳。扇情的なハスキーボイス。やることが少年のそれ。普段はしゃべらない、はじっこ勢。そして、BL作家。
「どうして僕の周りは声の小さい奴が多いのか」
他の高校に通ったことがないので、小中学校の記憶と比較しなければならないが、普通小中学校の時の方がうるさいはずなのに、この学校はそれを優に超えるほどうるさい。
「違うよ。君は、そういう風に世界を構築しているだけだよ」
それは、僕の世界が反響しやすいということなのかもしれないが。
反響。反芻。反復。
それが、僕の世界。
「聞きたくない言葉だけが響いて、本当に欲しい言葉は慎重に扱い過ぎて消えてしまう」
彼女の台詞に、反論の余地は一つもなかった。
「だから君は、私を見つけてくれた。そんな君だから、私は君と」
そう言って。
彼女は教室に入っていった。
「なんだよ、それ」
彼女の席と僕の席は、見事に真逆の位置にあり、普段から話すことは無いのだけれど、そんな僕に親近感を覚えていた。
客観的に考えれば失礼なことこの上ない。
「でもまあ、俺とは違って、人気はあるんだよなぁ」
僕の周りの席は、残念ながら女子ばかり―しかも、相容れないタイプ―で、だから僕は寝たふりをするしかないのだが、その時に聞こえる会話はいつも彼女のことだった。
「何を聞いているんだ、僕は」
相当気持ち悪いところが発揮されたところで、僕は思い出していた。
『人は皆、一つくらいは世界を持つ。誰もがその世界の創造主で、この地球の上に世界をぶつけ合っている。常識って言うのは大多数の人間が作った世界の、言ってしまえば共通点だよ。つまり、正解も不正解もない。たまたまそういう世界だった、それだけさ』
専門家―兄の言葉。
自分が産み出した世界。共存共栄するのが当たり前とされる、むしろ弾圧するのが普通とされるこの世の中で、彼女は自ら産んだ世界に飲み込まれそうになった。
『だから、産まれた世界も、壊せないんだ。何かに置換することでしか、解決方法はない』
その言葉の冷淡さを、未だに僕は覚えている。
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