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矛盾世界 003 回想その壱
「最近物騒だなぁ」
スマートフォンのホーム画面に、ネットニュースの号外が映し出された。
『男女二人が変死体で発見』
まあ、私―子村明奈には関係ないけれど。
可哀想にとは思ったけれど、その分だけざまあみろと思ってしまった私は、もう終わっているのかもしれない。
始業式から一週間が過ぎ、最初の学力テストも終え、私は帰路に就いた。
西大橋を渡りきると、私の家はすぐそこに見える。
この学校を選んだ理由は主に二つ。ある程度余裕を持って授業に臨めるという点と家から最も近い学校であるという点だ。
余り友人がいない私でも、知人くらいならそれなりにいる。同じ趣味を持つ人、同じ部活だった人、同じクラスだった人。授業合間の休憩時間に話せるくらいの知り合いはほとんどこの学校にいる。
余裕を持って生きていけると、そう思っていた。
「ねえ、明奈さん」
声をかけてきたのは、同じクラスの外村うてなさんだった。
少しぼさっとした黒色のくせ毛に、赤縁の眼鏡。私よりも20㎝小さい体躯。小動物のような仕草はクラスの男子の視線を集めていたりする。
彼女は、何の気なしにさもありなんと隣に並ぶや否や、声をかけてきたというわけである。
そんな彼女と話すのは、初めてだった。
「……な、何でしょうか⁈」
裏返ってしまった。
仕方ない、急に話しかけられたから動揺しただけだ、と自分自身をなだめながら、「どうしたの?」と言い直した。
「どうしたの、うてなさん」
「いやあ、目の前の男の子、格好いいなって」
指差す方向を一瞥する。
残念ながら、私は男性が恋愛対象になることは無い。まあ、格好いいとかそう言った感情が全くないと言えば嘘になるけれど、気にはならない。
むしろ、可愛い方が好きだ。
この子のような。
「確かに。すらっとしてて」
「いやいや、そっちじゃなくて」
「……あれ、じゃあ誰のことですか?」
隣には、冴えない感じの瘦せ型と、少し体格のいい運動部かなんかの人しかいなかった。たぶん、女性100人に訊いたら、90人くらいは真ん中を選ぶだろう。
彼女は、そのうちの10人だった。
「隣の、ガタイの良い人」
ガタイの良さは、時にスポーツ選手を連想させる。
スポーツ選手でなければ、動物とか。
ライオンや虎、ゴリラやその他もろもろ、動物には格好いい生物がたくさんいる。
スポーツ選手も、ゴリゴリの筋肉質を見せつける人たちばかりだ。
彼女は、そういう男の人がタイプらしい。
ちなみに、そのタイプの人は瀬川十哉だったりする。
「良いですね、健康そうで」
「でしょっ! やっぱり、痩せている人よりもガタイの良い人の方が良いよ!」
「そうなんですかねぇ」
その後、すれ違うタイミングで彼女はじっと見つめていた。
変質者と思われそうだったので、「や、やめた方が良いのでは」としっかりと忠告したのだが、彼女は「えーいいじゃん」と聞かなかった。
「よし、目の保養もOKなことだし。どっか行かない?」
「……誘ってくれるのは嬉しいのですが、家ここなので」
気づけば―ってほど歩いたわけではないけれど―、私の家に着いていた。
「え、ここなの? じゃあ、今度勉強しに来てもいいかな?」
コミュニケーション能力が高いというか、パーソナルスペースが小さいというか。
どこまでも入っていける彼女の姿勢は見習うべきものだと思う。少なくとも私にはない才能で、俗っぽく言うならば羨ましかった。
少しだけ憧れた。
「……大丈夫ですよ」
「やったー!」
彼女の歓声が、私の心を躍らせた。
「じゃあね!」
「さ、さようなら」
部屋に戻ると、私は平常心を取り戻していた。
「ただいま」
誰もいない家へ、私は報告をする。
後で叱られるなと思いつつ、私はバッグやらなにやら荷物を全てリビングに放り投げ、制服を脱ぎながら、私の部屋がある2階へ昇った。
「……さて、やりますか」
日課として、私は絵を描いている。
その日あった「滾る」状況を絵にしたためることで、私はリラックスすることができる。
「……やっぱり、あの笑顔かな」
私の心を疼かせたあの笑顔。優しく包んでくれるその笑顔。
私は、無心で描いた。
「……」
一瞬だった。どこで始まったのか自分でも分からないほど一瞬だった。
もしかすると、昨日から、あるいは、それ以上前からそう思っていたのかと勘違いするほどに一瞬で、世界は変わった。
何か特別な理由があってそれで好きになるという、今まで私を取り巻いていた概念は、この一瞬で音を立てて崩壊していった。
何もなくとも好きになるのだ。
幼馴染だから。命の恩人だから。昔会ったことがあるから。同じ趣味だから。同じ考え方だから。同じ何かを手にしているから。共通点があるから。
そんな理由は、私には必要なかった。
「可愛いなぁ」
思わずこぼれた独り言に、思いのすべてが詰まっていた。
描いた作品の余韻に浸っていると、時刻は間もなく19時を示そうとしていた。
「やばっ」
今日は両親ともに帰ってこない。
それはつまり、家事全てが私の担当であることを意味する。
食事の用意をしていなかった私は、仕方なく近所のコンビニへと足を延ばすことにした。
「……面倒だなぁ」
呟く言葉は夜空に消えていった。
大通りに出ると、車の量は格段に多くなった。今までこんなに通っているのを見たことは無かったが、すぐ後に原因が分かった。
もう一本北に大きな道があるのだが、それが何らかの理由で通れなくなっているらしい。
車の音で、他の音が聞こえない。
余りにも大きな音を長時間聞くと、なんとなく意識が遠のいていく。そんな体験をしたことは無いだろうか。多分それは、情報過多によって脳の処理が間に合っていないからということになるのだろうが、私はその状態に陥った。
その時だった。
私がコンビニに入ろうとしたとき、彼女は私に背を向けて逆U字型のポールにもたれていた。どうやらアイスを食べているようで、最期の意図口が落ちたタイミングでこちらを振り向いた。
「あれ、明奈ちゃん?」
「……うてな、さん?」
目の前に現れたのは、私服姿の彼女だった。
可愛い。驚いた瞳が可愛い。あんぐりした口が可愛い。風で揺れる髪が可愛い。可愛い。あわあわする腕が可愛い。アイスで汚れた指先が可愛い。若干膨らむ胸が可愛い。可愛い。スカートが可愛い。露出した足が可愛い。だらんとした全体の服装が可愛い。
可愛い。圧倒的に、相対的に、絶対的に、超越して、超然として、可愛い。
「どしたの?」
「わっ私は、夕ご飯を買いに来たんですけど、うてなさんこそ」
「あー、私はちょっと」
そう言うと、彼女は私に近づいた。
彼女は、真剣なまなざしをこちらに向けて、そのまま顔を近づけた。
首筋に彼女の吐息がかかる。
近い。心臓の音が、彼女に聞かれそうだ。
「ど、どうしたんですか?」
「においがする」
……匂い?
「うん。でも、まだ小さいかな。ちょっと、こっちに来てもらってもいいかな」
彼女の不穏な空気に、私は息を呑んだ。
「ちょっと待ってください」
私は、私の腕をつかむ彼女の肩をつかんだ。
「あの、先に教えてもらってもいいですか?」
不穏な空気、不穏当な流れ、嫌な予感。
払拭したくて、私は尋ねた。
「何者……なんでしょうか」
「世界管理人というと、カッコつけすぎかな。専門家ってことでいいよ」
「……専門家?」
「不思議な現象を専門に取り扱う人たちのこと。妖怪係。幽霊係。悪魔係。神係。そして、世界係。私は、その世界管理人ですよ。詳しくは後で言うので、とりあえず来てください」
まだ知らなかった。
私には、こんな世界が広がっていたことを。
安直で愚直でどす黒い世界。嫉妬と怨恨が満ちた世界。傷ついた先に生み出す世界。
「安心してください。まだ生まれる前ですから」
彼女の笑顔が、引き金になろうとは。
思いもしなかった。
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