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009 テータテート
走って、走って、走った先に、彼女は立ちはだかった。
空の色は、黒を極めている。漆黒というより暗黒に近い。どす黒い世界に似合った、完璧な空気だ。
「これが、彼女の世界」
僕の呟きは、ブラックホールのような世界に吸い込まれ、誰の耳に届くことは無かった。
アパートに入り、僕はあの部屋へと歩んでいく。一歩一歩着実に。怖気づいてしまう心を抑える。胸の動悸が加速する。
リズミカルになるはずの鼓動は、不規則に鳴っている。もしかすると、まともに聴き取れなくなっているのかもしれない。
「落ち着け、落ち着け」
処理者がこんなんでどうする。彼女がせっかく頼ってくれたんだ。それを無下にするのか。僕は、その程度の人間なのか。……ああ、その程度の人間だよ。僕はどうせ負け組だよ。勝ちを知らないどころか、負けしか知らない犬だよ。
でもな、僕だってプライドはある……いや、ねえな。
どうやら、すぐに反論できてしまうほどに、僕はちっぽけな人間らしい。だったら、何だというんだ。
「僕は、一番下の人間だ。ならば、失うものは何もない」
人ひとりの願いを叶えないで、何が世界管理人だ。
ちっぽけなら、ちっぽけらしく。
混乱させて、混沌させて、混迷させて、狼藉させて、狼狽させて、困惑させて、当惑させて、目茶目茶の滅茶苦茶にしてしまえばいい。
変なところに落としどころをつけて、僕はドアノブに手をかける。我ながら、論理崩壊もいいところだ。そんなことを考えながら落ち着いて回そうとする。まわそうと、したのだが。
「……あれ、回らない」
まさか、まさか、まさかの真逆。
「上かよ」
横長に伸びるタイプのドアノブで、上にあげるのは聞いたことがない。
「失礼しまーす」
開けた瞬間のその景色は、度肝を抜くものであり、もはや僕には嘆息を漏らすことしかできなかった。
ドアノブを下にするのではなく、上にあげるところで気づくべきだった。しかし、僕にはそんなことを考える余裕さえ、この景色は与えてくれなかった。
僕だけが周りと違う時、通常は自分の間違いを疑うべきなのだろうが、もはやそれすらも超えて、今の状況に僕は対応しようとしている。間違いを正そうとしている。自分が間違っているわけでもないのに。頭の中では分かっていて、それでも体はそんな簡単に動いてはくれない。自分がおかしいのではない、周りがおかしいのだ。
だって、目の前の景色はすべて上下逆転しているのだから。
「こっちの方がよっぽど矛盾世界だろ……」
机が上に、くっついている。電灯が下に、並べられている。
その電灯の合間に、彼女は立っていた。
「こんにちは、我が愛の巣へ」
妖艶な雰囲気。色気のある女性。艶やかな髪、上品な服装。かわいらしい声色。扇情的なおみ足。
「あなたが……彩羽さん、ですか」
「ええ、そうよ」
すると、彼女は上にくっついている椅子の背を持ち、下におろした。
「ここに座りなさいな」
彼女は、笑みを浮かべる。
僕は苦笑いを浮かべながら、彼女に「子村さんは、どこですか」と尋ねた。彼女は、笑い飛ばしながら「隣の部屋で横になっているよ」と言ってのけた。
「まさか、殺してないでしょうね」
僕の真剣なまなざしが面白かったのか、あるいは普段からずっとこの顔なのか、常に笑っている。
「ええ、殺してはいないわ。だって、それでは面白くないもの」
何を考えているのか、何を思っているのか。これほどまでに分からないこともあるのだろうか。
「それで、」彼女は、窓の外を見ながら、僕に尋ねる。
これから、会話の始まりだ。
「何の用かしら」
「あなたが作る世界の、原因を知りに来ました」
「どうして?」
「依頼を受けたので」
「彼女の?」
「ええ」
「そう。なら、私は何も言わないわ」
「そうですよね。そんな気がしてました」
「まあ、実害を出すつもりもないわ」
「死ぬまで貫き通すつもりですか?」
「もちろんよ」
「わざわざ?」
「それが、望んだ世界だからよ」
「まあ、漫画家の姪っ子さんがいると、どうしても嫉妬しちゃいますよね」
「さあ、どうでしょうね」
「あなた、美大卒らしいですね」
「いえ、私は普通に私大の四大ですよ」
「なら、芸術学部とか」
「かもしれませんわね」
「嫉妬することは、悪いことだとは思いませんよ」
「でも、それは自己中心的で、人間の使命に反するわ」
「使命とは?」
「平等で、公平な世界を想像し、創造することよ」
「それって、今していることと全く逆じゃないですか」
「だから、逆のことをしているのよ」
「……。では、あなたは嫉妬は悪だと思っているのですか?」
「ええ、そうね」
「つまり、自分が悪人だと」
「いいえ、極悪人だわ」
「それでもいいと思っている」
「ええ、そうね」
「芸術ですね」
「思想よ」
「性悪説ってことですか」
「ええ、そうね」
「僕は性善説派ですけどね」
「じゃあ、人間ってどうして平等を目指すと思う?」
「そりゃ、自分が損をしないためですよね」
「それが性悪説なのよ」
「なるほど」
「君、なかなかやるわね」
「そうですか?」
「週2でここに通いなさい。そうしたら、この世界をあなたに授けるわ」
「そう言っていただけて光栄です」
「じゃあ、今日はお開きということで」
「ありがとうございました」
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