009 テータテート

1/1
前へ
/11ページ
次へ

009 テータテート

走って、走って、走った先に、彼女は立ちはだかった。 空の色は、黒を極めている。漆黒というより暗黒に近い。どす黒い世界に似合った、完璧な空気だ。 「これが、彼女の世界」 僕の呟きは、ブラックホールのような世界に吸い込まれ、誰の耳に届くことは無かった。 アパートに入り、僕はあの部屋へと歩んでいく。一歩一歩着実に。怖気づいてしまう心を抑える。胸の動悸が加速する。 リズミカルになるはずの鼓動は、不規則に鳴っている。もしかすると、まともに聴き取れなくなっているのかもしれない。 「落ち着け、落ち着け」 処理者がこんなんでどうする。彼女がせっかく頼ってくれたんだ。それを無下にするのか。僕は、その程度の人間なのか。……ああ、その程度の人間だよ。僕はどうせ負け組だよ。勝ちを知らないどころか、負けしか知らない犬だよ。 でもな、僕だってプライドはある……いや、ねえな。 どうやら、すぐに反論できてしまうほどに、僕はちっぽけな人間らしい。だったら、何だというんだ。 「僕は、一番下の人間だ。ならば、失うものは何もない」 人ひとりの願いを叶えないで、何が世界管理人だ。 ちっぽけなら、ちっぽけらしく。 混乱させて、混沌させて、混迷させて、狼藉させて、狼狽させて、困惑させて、当惑させて、目茶目茶の滅茶苦茶にしてしまえばいい。 変なところに落としどころをつけて、僕はドアノブに手をかける。我ながら、論理崩壊もいいところだ。そんなことを考えながら落ち着いて回そうとする。まわそうと、したのだが。 「……あれ、回らない」 まさか、まさか、まさかの真逆。 「上かよ」 横長に伸びるタイプのドアノブで、上にあげるのは聞いたことがない。 「失礼しまーす」 開けた瞬間のその景色は、度肝を抜くものであり、もはや僕には嘆息を漏らすことしかできなかった。 ドアノブを下にするのではなく、上にあげるところで気づくべきだった。しかし、僕にはそんなことを考える余裕さえ、この景色は与えてくれなかった。 僕だけが周りと違う時、通常は自分の間違いを疑うべきなのだろうが、もはやそれすらも超えて、今の状況に僕は対応しようとしている。間違いを正そうとしている。自分が間違っているわけでもないのに。頭の中では分かっていて、それでも体はそんな簡単に動いてはくれない。自分がおかしいのではない、周りがおかしいのだ。 だって、目の前の景色はすべて上下逆転しているのだから。 「こっちの方がよっぽど矛盾世界だろ……」 机が上に、くっついている。電灯が下に、並べられている。 その電灯の合間に、彼女は立っていた。 「こんにちは、我が愛の巣へ」 妖艶な雰囲気。色気のある女性。艶やかな髪、上品な服装。かわいらしい声色。扇情的なおみ足。 「あなたが……彩羽さん、ですか」 「ええ、そうよ」 すると、彼女は上にくっついている椅子の背を持ち、下におろした。 「ここに座りなさいな」 彼女は、笑みを浮かべる。 僕は苦笑いを浮かべながら、彼女に「子村さんは、どこですか」と尋ねた。彼女は、笑い飛ばしながら「隣の部屋で横になっているよ」と言ってのけた。 「まさか、殺してないでしょうね」 僕の真剣なまなざしが面白かったのか、あるいは普段からずっとこの顔なのか、常に笑っている。 「ええ、殺してはいないわ。だって、それでは面白くないもの」 何を考えているのか、何を思っているのか。これほどまでに分からないこともあるのだろうか。 「それで、」彼女は、窓の外を見ながら、僕に尋ねる。 これから、会話(せんそう)の始まりだ。 「何の用かしら」 「あなたが作る世界の、原因を知りに来ました」 「どうして?」 「依頼を受けたので」 「彼女の?」 「ええ」 「そう。なら、私は何も言わないわ」 「そうですよね。そんな気がしてました」 「まあ、実害を出すつもりもないわ」 「死ぬまで貫き通すつもりですか?」 「もちろんよ」 「わざわざ?」 「それが、望んだ世界だからよ」 「まあ、漫画家の姪っ子さんがいると、どうしても嫉妬しちゃいますよね」 「さあ、どうでしょうね」 「あなた、美大卒らしいですね」 「いえ、私は普通に私大の四大ですよ」 「なら、芸術学部とか」 「かもしれませんわね」 「嫉妬することは、悪いことだとは思いませんよ」 「でも、それは自己中心的で、人間の使命に反するわ」 「使命とは?」 「平等で、公平な世界を想像し、創造することよ」 「それって、今していることと全く逆じゃないですか」 「だから、逆のことをしているのよ」 「……。では、あなたは嫉妬は悪だと思っているのですか?」 「ええ、そうね」 「つまり、自分が悪人だと」 「いいえ、極悪人だわ」 「それでもいいと思っている」 「ええ、そうね」 「芸術ですね」 「思想よ」 「性悪説ってことですか」 「ええ、そうね」 「僕は性善説派ですけどね」 「じゃあ、人間ってどうして平等を目指すと思う?」 「そりゃ、自分が損をしないためですよね」 「それが性悪説なのよ」 「なるほど」 「君、なかなかやるわね」 「そうですか?」 「週2でここに通いなさい。そうしたら、この世界をあなたに授けるわ」 「そう言っていただけて光栄です」 「じゃあ、今日はお開きということで」 「ありがとうございました」
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加