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001 ありふれた日常
日本語は難しい。
よく言われる言葉で、時に厭味ったらしく、時に称賛をこめて、時に言い訳のように使われる言葉を、僕はとうとう使わなければならない日が来てしまったようだ。
言語というのは本来、概念に対して適当に振り分けた者に過ぎないというのは訊いたことがある。言語というと広くとらえられてしまいそうなので、名前でもいいだろう。
名は体を表す。
なぜなら、その体を見て名をつけるのだから。確定させて、決定させて、固定させるのだから。
とにかく、言葉というのは、この世界に存在するものではなく、人間の脳の中でしかないものなのだ。
その点、数学や理科とは異なってくる。
なのに、それなのにである。
まさか、数学の授業中に日本語について学ばなければならないとは。
「逆とか裏とか、どっちがどっちだかさっぱりだ」
逆は条件と結果を入れ替える。裏は、そのものをひっくり返す。じゃあ、反対ってなんだよ。好きの反対は何だよ。嫌いなのか、無関心なのか。
「そうだよねぇ」
刺したストローで中身をぐるぐる回しながら、うてなは同意した。
「でもさ、1時限目の数学を昼食の時間まで引っ張らなくてもよくない?」
僕らは、昼飯の真っ最中だった。
「ほら、来週から定期考査だろ?」
5月12日。
窓から見える景色は、五月晴れという言葉がお似合いである。
「そうだっけ?」
彼女の能天気具合も、相当な五月晴れを見せてくれている。
こんな感じでいて、そつなくこなしてしまうのだから、
天才肌って恐ろしい。
「とか言って、本当は家でめっちゃ勉強してるんだろ? わかってんだぞ。夜遅くまで部屋でなんかやっているの」
「……何で知ってるのさ」
なんだその照れ方は。まるで、僕が見てはいけないものを射ているかのようではないか。先に言っておくが、僕だって別に見たくて見ているわけではない。証拠が山盛りなのだ。
大広間に、ジュース出しっぱなし。テレビつけっぱなし。おまけに電気はつけっぱなし。
「おまえは片づけということをしろ」
「はーい」
むすっとする彼女は、やはりクラス第1位の噂通り、可愛かった。
「ねえ、前から疑問に思っていたんだけどさ」
持っていたおにぎりを口に突っ込んだ後、ちゃんとかんだのか分からないがとりあえず飲み込んで、彼女は僕の眼を見つめた。
「なんだい?」
僕の表情を見るなり、彼女は「ははーん」と笑った。
「やっぱりそーなんだぁ」
彼女は、楽しそうに笑った。
「まだ何も言っていないんだけど」
「どーせ、君の弁当は先輩が作ったんでしょ?」
正解である。
天才外村の眼は欺けず、あっさりと僕の弁当は先輩による弁当だということが、あっけなくバレてしまった。
しかし、僕にだって言い分はある。
僕がしてほしいと頼んだことは一度たりともない。し、彼女が「これ、君の為に作ったから」とかわいらしく懇願したわけでもないのだ。
これは、彼女の実験に付き合わされているのだ。
「実験?」
僕らは、ロッカーに向かっていた。
彼女は次の授業の準備をし始めながら、不思議そうに言った。
「そう、実験」
片づけを知らない彼女のロッカーは、もはや発掘現場と化していたのだが、彼女には場所が分かっているのだから不思議である。
「どういうこと?」
僕は、彼女の動向を見つつ、答える。
「人間だれしも、美味しく食べられるように料理を研究するだろ?」
「まあね。美味しくないと食べたくないし」
「だから、あえて、美味しくない限界を探しているんだとか」
「美味しくない限界?」
彼女は探し終わったようで、立ち上がりながら訊いた。
「そう。美味しくないと、有害物質の境界を探すんだとか」
「それ、大丈夫なの?」
「さあ」
先輩曰く、美味しいものだって体に害を与えるのだから、たいして差は無いのだとか。
彼女に、美味しいが幸せという概念は無いらしい。
「まあ、彼女の実験に付き合えるというのが、僕の幸せだからね」
「君の幸せって、やっぱり歪んでいるよ」
うてなは、僕を見下すような目で見つめた。
所謂ジト目というものを僕に向けた彼女は、「はあ」とため息をついて、「ばーか」と告げた。
「何それ」
「何でもない」
彼女は、そう言うと、さらさらとした長髪を揺らした。
「そういえば、もうポニーテールにはしないのか?」
「どうして、君の趣味に合わせなきゃいけないの?」
廊下を一歩先に歩く彼女は、振り返る。
「まあ、してほしいって言うのならするけれど」
「だったら、ツインテールにしてほしい」
「私だからまだ許されているけれど、そのままの性格じゃ、永遠に友達出来ないよ。特に異性の」
むう。
人というのは、褒めればいいってもんでもないらしい。
「今の会話のどこに褒め要素があったの」
とうとうクエスチョンマークがつかなくなった。若干怒っているのかもしれない。
「ごめん」
「謝るなっての」
彼女は微笑みながらそう言うと、「そこが君の良いところでしょ? 包み隠さず、全てを言えるところが」と続けた。
「優しいな」
「これが私よ」
そして、彼女は教室のドアを閉めた。
僕は、その隣の、自分の教室へ入る。
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