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007 翌朝
人が敷いたレールの上を歩きたくないという主張は、思春期男子なら誰しもが一度は持つものだと思われる。それは、若気の至りだと嘲笑うわけでもなく、そうだよなと同調するつもりもない。
しかしながら、僕の中にその主張はなかった。
「そこに結果があるのなら、従わない手はない」
翌朝。
暖かい日差しに包まれた僕は、最近にしては珍しく、気持ち良く起きることができた。
というのも、今日は土曜日であり、部活動も補習もない僕にとって、その日は休日以外の何物でもなく、しかもこんなにもお出かけ日和なのだ、外出にはもってこいの日である。
「……」
……はぁ。
止めよう。そんな風に自分の気持ちを上げようとしても無駄だ。無茶だし、無理ってものだ。確かに、脳が起動し始めたころは、「土曜日だ、晴れている」などと甘ったれた感想を抱いたが、つかの間、すぐに思い出してしまった。
昨日のこと。
昨日の子村さん。
昨日のトオルさん。
昨日のまどかさん。
昨日のうてな。
昨日の話。
「人間じゃなくて、人形ってどういうことだよ」
僕は、今日出かけなければならない。
出かけようという意志でもなく、出かけたいという希望でもなく、義務として、責務としての外出。
重い上半身を起こし、僕は窓の外を見やる。
「行きたくねぇな」
テストがあるからと嘘を吐いて面倒事を遠ざけるのは容易だった。なにしろ、実害が出ていないのだ。けが人も、死人もいない。ありがたいことに、害を及ぼしていないのだ。ただ、そこに天才を超えた何かが存在しているだけ。
逆に、彼女―うてなの仮説が真実だとして、むしろその方が実害が出るかもしれない。そうでなくても、その仮説が正しいのなら、当の本人は、狂っているのだから。
相当に壊れている。
そう言いきれる。
「……着替えるか」
上半身よりもさらに重い腰を上げ、僕は洗濯物の山の頂上から服をとった。当の本人と面会するには、子村さんに話を通さなければならない。なぜなら、トオルさんがいたアパートに、当の本人はいないと思えたからだ。
靴もなければ、そういった匂いもない。狂いだすあの部屋に住める人なんて、いないだろう。それこそ、人間ではないものくらいしか。
だから、僕は当事者と会うために、子村さんと連絡を取らなければならない。
……。
……。
……。
「連絡先、知らねえや」
着替えを終えた僕は、はぁと大きくため息をついて、隣の部屋へと向かった。隣の部屋というのは、つまりうてなの部屋だ。明るく仲良く元気よくが合言葉の彼女の性格と、かわいらしさと格好良さのハイブリッドな容姿のおかげで、彼女には知り合いが大勢いる。たぶん、全クラスに10人は友達がいると言ってもいい。それくらいに彼女は、人当たりが良く、愛されるキャラなのだ。
ドアをノックする。
ドアの向こう側から「はいるがよいわー」という声が聞こえた。誰かのモノマネなのだろうか。僕には分からないので、スルーしてドアを開く。
「はよー」
部屋に入ると、彼女はうつろな瞳を向けた。彼女は、僕のことに気づくと「はぁ」とため息をついて、挨拶を返した。
「よー」
太陽の光が照らす彼女の髪が、神々しかった。
「あ、あの、子村さんの連絡先知らないか」
少し照れた僕を見るなり、彼女は「ほほーん」と頷き、腕を組んで笑ってみせた。
「そうかそうか、君はちゃんと連絡先を聞かなかったのか。まあ、恥ずかしがり屋の君にはちょっと難しいお題だったかな」
うるせえ。僕だって、連絡先を聞けるくらいのスキルは……多分、きっと、もしかすると、その辺には、あるのではないかと思いつつ、そんな雰囲気を醸し出すことくらいはできるかもしれない。
ええ、はい、できません。
でも、と言いかけて、僕は下を向く。先輩には確かに聞いたことがあるが、その時は接触の為の連絡先交換ではなく、監視対象としての、いわば、業務的な交換だった。
「でもね、残念ながら私も知らないのだよ」
彼女の言葉は、意外だった。人間タウンワークとも呼び声高い彼女のことだから、誰の連絡先も知らないことは無いのかと思っていた。
「おいおい、私を何だと思っている。別に、知らないことだってあるよ。だから、今日のところは悪いんだけど、手伝えないや」
そう言って、彼女は再び夢の世界へと潜り込んでいった。
「マジかよ」
どうすりゃいいんだ。
僕は頭を抱えつつ、部屋を出る。つてがなくなった僕は、とうとう為す術を無くした。
「……とりあえず、作戦を練ろう」
広間に行けば、まどかさんか、もしくは兄貴がいるかもしれない。気の乗らない足取りで僕は歩く。
人間が野生の本能を忘れていないと思うのは、以外にもこんな時だと思う。勘というか、予感というか。僕は、そのような、嫌なものを感じた。重い足取りはさらに重くなる。
嫌な予感がする。ああ、嫌だな。まさか、まさか、まさか。
「やっほ、後輩」
「……どうしてここにいるんですか先輩」
目の前には、まどかさんと未桜先輩が、向かい合ってお茶菓子をつまむ光景が、広がっていたのだった。
「近々学校でテストがあると聞いた」
「いや、先輩もあるんですけど」
この時期は、まだ3年生も同時にテストを行う。その後は、受験に向けて3年生だけ特別日程が組まれるらしいが。
「それで、あいつは勉強ができなかったなぁと思いだした」
さも当然のように真顔で言われると、反論もできなかった。
「そして、今日は休日。あいつには会えないと気づいた」
いつまで続くんだろう、この喋り方。もしかして、教師の前ではいつもこんな感じなのだろうか。
「だから、私は来た」
ほとんど無表情で述べられたここまでの経緯は、なまじ認められる物でもなかった。つーか、そんなラフに来るなよ。ここは、あなたにとって敵だらけのはずなんですけど。
「まあ、こうしている間害はないんだし、座りなよ、少年」
うちの担任は、そう豪快に笑った。ソファをばしばし叩く彼女は、他のどの時も楽しそうだった。
「久々に会えて楽しいんだよ、こんな天才。世界の誰よりも先が見えるからこその、あの結末。くぅー! 痺れるねぇ」
彼女は、僕と先輩との出会いを逡巡しているのだろう。あの時のことはもう忘れることのできない過去となってしまったけれど、だからと言って何度も思い出したいかと言われれば全くそんなことは無い。静かにしまっておきたい過去である。
『君が私のものである限り、この世は平和に包まれる』
先輩は、そんな風に僕を口説いた。しかしながら、それは全く逆の意味だった。
『君が私のものでなくなった時、この世に平和は訪れない』
そんな関係なのだ、僕と先輩は。
「ねえ、どこか分からないところとかなぁい?」
彼女の猫なで声は大変レア度が高いものだった。
しかしながら、僕には仕事があった。
ここで、はたと気付く。
実害が出ていないからとか、そんなことは関係なかったのだ。僕がここまで動く理由を、思い出した。昨日は色々と衝撃的すぎて忘れていた。
そもそも、こんなことに首を突っ込む必要なんてない。だって、死人が出なければけが人が出なければ、僕らの仕事は皆無である。さらに言えば、各家庭のことまで管轄内なわけがない。
ただ、これはれっきとした依頼。
彼女が助けてくれと頼んでくれたのだ。
それに対応しないわけがない。
「すみません、僕これから用事があるので」
すると、先輩とまどかさんは目を合わせた。何か会話を交わしているようにも思えたが、なにせ相手は天才同士、僕が分かるはずもなかった。
スーパーコンピューターのような演算能力を持ち合わせている先輩は、「ふーん」とすべてを納得したかのような反応を示した。
「じゃあ、私の携帯貸したげるよ」
高速で操作する彼女に見蕩れていると、彼女は画面を提示した。
そこに表示されていたのは、子村さんだった。
「……いつの間に連絡先を」
「ほら、話聞いた時に」
「なるほど……」
これで一歩進めたわけだ。ありがたく先輩のご厚意に甘えようじゃないか。
僕は彼女の携帯に手を伸ばした。
しかし、それはまどかさんによって阻まれた。
瞬時に僕の耳元まで近づき、僕の手首をぎゅっと握った彼女は「昨日、うてなと何をした」と耳元でささやいた。僕は、嘘を吐こうか真面目に吐こうか迷って「何のことですか」とはぐらかした。しかし、彼女の表情は真剣そのもので、変わることは無かった。そして、彼女は「勘づいてるぞ」とだけ、僕に忠告をした。
「じゃ、私は授業の用意するから」
まどかさんは、僕の手首を開放し、すぐに自室へと戻っていった。
「何話してたの?」
純粋な表情に、素朴な声。僕は、先輩の怖さを体感する。
「いえ、何も。改めて先輩、ありがとうございます。お礼に、何か一つやってほしいことがあれば言ってください」
僕の精一杯のおだては、あっけなく彼女によって壊された。
「じゃあ、今度私の家の風呂に一緒に入って」
天才って、ほんと怖い。
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