008 走れ、走れ、走れ

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008 走れ、走れ、走れ

息切れする声が、うざったく感じる。 眼前の景色がぼんやりとする。そして矢継ぎ早に変わっていく。 風の香りが、つんと痛い。 腕が悲鳴を上げている。 より早く、より速く地面を蹴る。 普段運動していないことが、こんなところで反映されるのか。 不安を掻き消し、走る、走る。 彼女の街を疾走する。 彼女の元へ激走する。 焦燥から、逃走する。 「もしかしなくとも、彼女は嫉妬深いのだろう」 たくさんの怖気を、夥しい恐怖を投げ飛ばしたくて、僕は走る。 そんな人がいるのか。そんな人だらけだろ。皆行動しないだけで、頭の中では、みんなそう考えてる。 指向は善だ。行為は悪だ。 嗜好は善だ。発言は悪だ。 思考は善だ。言動は悪だ。 先輩の華麗なるアシストを受け、僕は家を飛び出した。 「あ、もしもその人のところへ行くのなら、ちゃんと覚悟していきなさいよ。でないと、死人が出る。 あと、明奈さんを一人にしないこと。一人にしないってのは、『遅れそうだから先に行ってて』とかって言わないってことね。 少なくとも、架空の人間を実体化させられるほどの狂人を相手にしているということだけは、忘れないで」 先輩の言葉からの不穏でどよめく空気が、僕の焦燥感を煽る。 目的はもう決まっている。あの可憐で格好いい彼女の願いを叶える。それだけで、十分だったのだ。 それよりも、それ以上のことを恐れている。 願いが叶わないことよりもひどく、恐ろしいこと。 直前、先輩は「命の危険があったら、すぐ逃げること」と忠告を受けたが、そんなことは気にしていられなかった。 そんな忠告を天才がするということは、つまりそのレベルの事件が起きるということだろう。 百パーセント信頼をしている先輩からの一言が、のしかかる。 「たのむ、子村さん」 落ち着いてなどいられるか。 赤信号を活用して、子村さんに電話を掛ける。 もしも、彼女が一人で出向いているとしたら。彼女とは、なんの約束もしていない。普通に考えて、一人で出向かないという可能性の方が低いのだ。なぜなら、彼女自身が助けたいと思っているから。こうしている今も、歩みを止めていないのかもしれない。 彼女は、そういう人間だ。自ら関わったものは、最期まで関わろうとする。関係ないカップルまで、自分の嫉妬に任せて殺していった。もしも、今回もそうだとすれば。 自分の好きな人を、ほっとくわけがない。 『もしもし』 彼女の冷静沈着な声が、心地よく感じた。 「いま、どこにいますか」 僕の息切れを聞いたのか、彼女は不思議そうに『どうしたの』と訊いてくる。僕は、「それはどうでもいいんです」と切り返し、本題に入った。 外の気温をようやく感じる。 走った後ということもあり、大変暑く感じる。 太陽のせいなのか、運動のせいなのか、高鳴る胸のせいなのか、整わない呼吸を無理やり抑えて、僕は尋ねる。 「どこにいますか」 『今、アパートの前』 マジかよ。予想通りかよ。 「待ってください。今から、僕も行きますので、絶対に入らないでください」 『え、どうし』 瞬間。刹那。一瞬。 彼女は、電話口から姿を消した。 「子村さん!」 僕の声を、彼女は訊いたのだろうか。 しかし、返答はない。 代わりに、聞き覚えのない声が、僕の耳を突き刺す。 『あなた、私の邪魔をしないでちょーだい』 艶のある美声。大人っぽい音。色っぽい声色。品のある響き。 彼女こそが、今回の。 「あなたは、誰ですか?」 『牛飼彩羽、ですけれど』
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