偉大な星たちの絵 6.星の琴線

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偉大な星たちの絵 6.星の琴線

 王立学院に足を踏み入れるとき、セルダン・レムニスケートは他の場所では感じない緊張を覚える。  校舎にはいつも――真冬でも――かすかなハーブと花の香りが漂い、深緑の制服を着た若者が静かに歩いている。みな訓練中の学生だ。魔力に優れ、その他の能力にも秀でていれば、将来王の政策顧問となる者もいるかもしれない。卒業後は白い衣をまとって王立魔術団の命じる職務につくか、灰色の衣をまとって各地の施療院におもむくか、暗色の衣をまとって回路魔術師団の塔へ入る者もいる。  しかしアピアンはセルダンとはちがう。王位継承権をもつ王族として何年も学院に通っていたのだ。いまもセルダンの前をいく歩調は軽く、物慣れた様子だったが、中庭に面した回廊の端でふいに足を止めた。 「ああ、セルダン。おまえに話しておかなければ」  学院にいるだけで緊張しているのに、この上何があるのかとセルダンは身構えた。 「何ですか?」 「私はアダマール師に隠し事ができない。師は熟練の魔術師で、私は師に直接教わっている。おまえが隣にいれば師の目には一目瞭然だ。もちろん師は不用意なことを口にするような方ではないが、気に入らないならここで待て」  セルダンは肩の力を抜いた。 「何かと思えばそんな話ですか。俺はかまいません」  アピアンは探るような目でセルダンをみた。 「本当に?」 「二度はいいません。あなたに問題がなければ、俺は何も」 「感心しない態度だな、レムニスケート」アピアンの口調はいつもの軽い調子に戻っている。「まあいい。こっちだ」  つきあたりの扉には精緻な彫刻がほどこされていた。アピアンが叩くと同時に扉の向こうから「入りなさい」と声が響く。精霊魔術師は見えなくとも他人の接近を感じとれるのだ。 「殿下。ひさしぶりにお目にかかる」  精霊魔術師の白い衣がひるがえる。王立学院の重鎮であるアダマール師は灰色の眉毛が印象的な風貌だった。 「こちらこそ、長いあいだお訪ねすることもなく、失礼しました。この者はセルダン・レムニスケート。私が信頼を置く友です」  セルダンは精霊魔術師にむかい、騎士の礼をとった。 「お会いできて光栄です」  部屋の中もかすかに花とハーブの香りが漂っている。アダマール師は座るように促したが、セルダンは王子と並んで腰をおろすのをためらった。 「セルダン殿」アダマール師がふふっと笑った。「かまわず座りなさい。ここは学院だ」 「は、はい」 「で、いったい何が起きたのかね?」  アピアンは簡潔に事情を説明しはじめた。城下に王族の一員を名乗る者があらわれたこと、その男は自分の宣誓署名入りの書状を持って保証としていること。 「もちろん私はそのような書状など何も知りません。しかし署名はまるで私の直筆のようでした。私がとんでもないうつけ者でないなら、これまでの生涯、宣誓署名をしたのはただ一度。二位の王位継承者はこの署名を使う機会などめったにない。その一度の機会は師がご存知です」 「ああ、そのとおり」アダマール師の眉があがる。 「この学院に入門するときに行う〈掟〉の宣誓ですな。はっきり記憶しております。殿下が私の目の前で署名されたのを」 「アダマール師。どのような者であればその署名を見て――偽造できるとお考えになりますか?」  師のふさふさした眉毛が今度は斜めに下がる。 「掟の宣誓の閲覧は学生には禁じられている。教師であっても写しは作れない。しかし……」  アピアンはすかさずいった。「見るだけで像を心に焼きつける技はある」 「その通り。ただしこの場合、その技を使うのは掟に反する。その者は学院に関係があるか、でなければここに内通者を持つか、となるわけだ。殿下がこうして私の元へいらした理由がわかりました。ただひとつだけ、確認しておきたいことがありますな」  セルダンにとっては思いがけないことに、アダマール師の言葉を聞いたとたんアピアンはニヤッと笑った。 「師がお聞きになりたいことはわかっています。私自身がこの男――ジュールスに会い、署名を見たのです」  アダマール師の眉毛がさらに下がる。 「殿下、さっきの話では、この男があらわれるのは城下の盛り場ということでしたな?」 「ええ、その通り。私とセルダンの馴染みの酒場がありましてね。ただ私はそこではアルティンと呼ばれている」 「アルティン――その名は」精霊魔術師は小さくため息をついた。 「殿下、先祖の名は大事に使われるように」  ハハハ、とアピアンは快活に笑った。 「大事に使えばこそ。アルティン王はいまだに城下の者たちに尊敬されています」 「まさか殿下の早耳はみなご自身で集めたとはいいますまい?」 「とんでもない。そんなことは不可能です。ただし今回の件については、このセルダンもジュールスの顔をみています。しかし署名をみたのは私だけです。師が()()()()()()()()()()()()()、ジュールスの正体がわかるかもしれません」  馬車の窓から眺める風景、馬の背から眺める風景、それに徒歩で眺める風景。おなじ王都の街並みであっても、観察者の位置によってみえるものが変わる。揺れる馬車の中でアピアンはふとそんなことを思う。三つの位置すべてを知ることができたのはおのれの立場に加え、ある種の幸運や偶然が働いてこそだ。ではもっと高いところ、天の星の位置からみた王都はどのような姿をさらすだろう。  向かいの席にアダマール師とセルダンが座っている。ふたりとも無言だ。夜闇が訪れていたが、回路魔術の明かりで照らされた街路は華やかだ。アピアンが変装せずにここを訪れるのは初めてだった。愚か者通りの入口で馬車が停まるとすぐさま人々の好奇の視線が集まってくる。紋がみえなくとも外観だけで王侯貴族のものだとわかるのだから、無理もない。 「誰にも見逃されないように、堂々と入るぞ」アピアンは窓から警護の騎士に告げた。「人が集まっても邪険にするな。訊ねられたらていねいに、私が所用あって訪れていると告げなさい。追い払わなくていいが、道は開けさせろ。アダマール師は私の隣に、セルダンは後ろに。警備隊員の配置はいいな? では行こう」  騎士が馬車の扉をあけ、アピアンは軽い足取りで外に出る。ざわめきがあがり、自分の名をささやく声が聞こえた。 「アピアン殿下?」 「上の王子様だよ!」  アピアンは笑顔をうかべ、人々に向かって軽く手をふった。アダマール師が横に並ぶと群衆がさっと道をあける。先を行く警備隊員が一軒一軒店の扉を叩き、ジュールスの所在をたしかめている。 「殿下、あちらに」 「ああ、いたか」  めざす遊戯場の扉が大きくひらかれる。アダマール師の白い衣をみたとたんに楽師の動きが止まった。アピアンは臆することなく足を踏み入れた。 「ここに私が後援する者がいると聞いたが」 「ジュールス!」誰かが叫んだ。「殿下がいらっしゃったよ!」  アピアンの前に道が開かれる。円卓でジュールスが凍りついていた。彼のまわりにいた女たちがさっと席をあける。人々は静まりかえった。好奇心と警戒と驚きの視線にさらされるのを感じながら、アピアンは周囲に笑顔を向けた。 「これを」  ふところに手をいれ、金貨の袋を引き出す。セルダンがすっと手をのばして受け取った。 「騒がせて悪いな。この者を城に呼べなかったので出向かせてもらった。いつものようにやってくれ。私の奢りだ」  わっと人々が湧き、ふたたび音楽がはじまった。警備隊員がさりげなくジュールスの背後にまわる。アピアンは大股で円卓に近づき、アダマール師に椅子を引くと、自分はジュールスの隣に腰を下ろした。  セルダンや警護の騎士が周囲に立っているおかげで円卓の周囲から人々は退いているが、好奇の視線は消え去らない。アピアンは声を低め、しかし表情だけは機嫌よく、ジュールスにささやきかける。 「ジュールス。やっと会えたな」 「で、殿下……なぜ……」 「私の署名を持ち歩いているのに、何をいう? 王家につながる者を迎えにこないと思ったか?」 「そ、それは……」 「あの書状を出してみろ」  ジュールスは落ちつかない目を左右に向ける。つい数日前「アルティン」に向けた自信たっぷりの視線とは正反対だ。セルダンがジュールスの背後からいった。 「殿下のお望みだ。出せ」 「これは……その……」  声は多少震えていたが、胸元から書簡筒を取り出す手はしなやかに動いた。しかもセルダンがその手に握ろうとしたとたん、筒の先にポッと炎があがる。 「セルダン!」  アピアンが声をあげるのと同時にアダマール師の手が宙にしるしを描いた。 「こんなところで火を出すのは感心しない」  シュウッと音を立てて火が消える。アダマール師はジュールスの手首をつかんでいる。 「顔を変えたか。しかし魔力の色は変わらぬな。()()()()」  精霊魔術師に別の名で呼ばれ、男の目がきっと光をおびる。アピアンは書簡筒をあけ、書状を取り出した。 「さて、アダマール師に吟味していただこう」  そのとたん男はアダマール師の手を振りほどき、立ち上がった。だがアダマール師はあわてた様子もみせず、アピアンが円卓に広げた書状に手のひらを押し当てている。伏せた手を囲むように淡い金色の光が浮かび、すぐに消えた。アピアンは目を瞬かせた。書状から王家の透かしが消えている。 「出来のよくない偽物ですな」  男の口からグッと声が漏れた。はじかれたように扉にむかって駆けだそうとするが、大股に飛びだしたセルダンに両肩を押さえつけられる。アダマール師は男をふりむき、ふたたび宙に印を描いた。男はまるで両手を縛られているかのように前に突き出し、うなだれた。男の外見がみるみるうちに変わるのをアピアンは目の当たりにした。自分よりずっと年上のようにみえていた姿が若返り、今やあまり変わらない年ごろにみえる。  円卓を見守る人々はまだ、何が起きたのかを理解していない。アピアンは警護の騎士に目で合図した。 「殿下、この者は私が城まで連れていきますぞ」アダマール師が眉をあげていった。「一年前に放校となった学生です。残念ですが……」 「まったく残念だ」アピアンは両腕を組んだ。 「ジュールス――いや、ヨナタンか? この書状が本物なら、私と並んで馬車に乗ってもらうのだったが」  セルダンが唸った。「ご冗談を」  警備隊がヨナタンの腕を背中に回し、枷をはめた。いまや円卓の周囲は静まりかえり、あらゆる顔がアピアンを注視している。アピアンは息を吸った。 「この者の沙汰は追って審判の塔から下される。偽の担保で被害にあった者がいれば、王城へ申し立ててくれ」  事の次第を悟って、ひそひそ声があたりに満ちるのをききながらアピアンは扉口へ歩きはじめた。と、「どうして――」とヨナタンが声をあげ、アピアンの背中に向かって叫んだ。 「いったい誰に聞いたんだ! どうして書簡の魔術が効かなかった?〈忘却〉の技法で、噂は通りの中だけで消えたはず――ここにいるやつらが騙されて終わるだけだったのに!」  アピアンはふりむいた。 「その通りだな。おまえに直接聞いたのさ」  ふたたび扉の方をむいたとき、目の端を見覚えのある顔がかすめた。いつもカウンターの向こうにいる酒場の女主人だ。    *  王家の係累を騙る不届き者が掟に背いた精霊魔術を使って詐欺を働いていたところを、アピアン王子に見破られる――翌日から王都はそんな話でもちきりになった。しかし犯人がどんな者で、具体的にどんな事件だったのかを知らされたのは、王城の限られた人々だけである。  被害にあったのは庶民ばかりで、一見したところ小さな事件にすぎない。しかしたとえばアダマール師は、犯人が精霊魔術を使って王立学院に保管された宣誓署名の写しをつくり、忘却の魔術を使って王城に悟られないように使おうとしたことに危機感を抱いた。  この翌年、王立学院の図書室では魔術書を原因とした火災が発生する。この事故では学生がひとり失われ、ひとりが重傷を負った。〈力〉をいかに制御するべきか、王国の中枢は頭を悩ませることになる。  庶民のあいだではその後しばらく「アピアン王子の捕物帳」なる物語が流行した。王子は城下にいる手の者を使い、王城の警備隊には届かないような不正まで見つけ出す、というものだが、王城の知人たちにその話をふられても王子は苦笑いをするだけで取りあわなかった。そのうちに第二王子メストリンの婚姻が決まり、王都は年若い王子と、もっと若く美しい花嫁の話題でもちきりになった。  メストリンの結婚は急に決まったものだったが、盛大に執り行われた。その後、王は第一王子が妻帯しないことについて不満を漏らさなくなり、それは第二王子の結婚がうまくいったからだろう、と考える者もいた。メストリンとその妻の様子は王の若いころを思わせる仲睦まじさで、二人のあいだにはすぐに子が生まれた。  第二王子の結婚からまもなく、アピアン王子は審判の塔の公職に任命され、同時にセルダン・レムニスケートは近衛部隊を外れ、アピアン王子の専属武官を拝命した。どちらも王の強い意向によるものだといわれている。王はレムニスケート当主だけでなく、その嗣子にも信頼を寄せているともっぱらの噂だ。 「アピアン王子の捕物帳」のように、王子が仰々しく馬車で盛り場に登場したことはその後ただの一度もない。しかし城下には王子の〈目〉や〈耳〉となる者がひそかに働いている、という噂は根強く残った。それに祝祭のときなど、アピアン王子は気軽な装いで庶民の店に顔を出すこともある。王子の背後にはいつも、影のようにセルダン・レムニスケートが付き従っている。
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