9.水底の石

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9.水底の石

 こんなに夜もふけて、しかも街から帰ってきたばかりだというのに、この男はこんな所業をする。 「レムニスケート、何をする」  アピアンは物憂げに、だが鋭い声をあげてセルダンをにらんだ。騎士は動じなかった。アピアンの唇から取り上げた紙巻を指にはさみ、しげしげと眺める。 「やっぱりそうだ。殿下、これは夜の蛍です」 「返せ」  いくらか酔っているのは自覚していたが、それでも体はなめらかに動いた。アピアンはすばやく立ち上がり、騎士に手をかけて紙巻を取り返そうとした。だが相手はもっと早く、めざとく石の皿をみつけてこする。アピアンの目の前で最後の煙が浴室の暖気にまじり、消えてしまった。 「ちょうどこれの話を聞いたばかりです」  セルダンは火の消えた紙巻とアピアンを交互にみつめたが、視線が落ち着きなくぶれた。どうしたのかと思いながらアピアンは口をひらいた。この流れならたずねないわけにはいかない。 「どこで」 「キリムという男です。王族のおひとりに仕えている者で騎士団所属ではありませんが、訓練場で知り合いました」 「その男と街へ行ったのか」アピアンは立ったまま腕を組んだ。 「セルダン、私の質問に答えなかったな。街はどうだったかと聞いたんだ。楽しかったかと」  いささか嫌味に響いたかもしれない。だがアピアンにとっては今日の夜会も公務の一部で、気疲れのする仕事をやっと終わってくつろいでいたところだった。夜会で勧められた気晴らしを取り上げられれば、苛立ちもする。  セルダン・レムニスケートはアピアンの問いをどう思ったのだろう。視線はあいかわらず彼らしくなく揺れていたが、アピアンはまさかそれが自分のせいだとは思っていなかった。 「殿下、俺は出立前、騎士団長から任務を仰せつかっていました」  騎士はいったが、いつもならもっとはっきり聞こえる声が今は低く、アピアンの耳に官能的に響いた。浴室の音響のためだろうか。ぬくもった皮膚の内側が騒ぐ。 「この国で『夜の蛍』がどう浸透しているか――どこで作られ、どう流れているか。今夜、軽い効き目の薬物を貴族経由で広めているという話を聞きました」 「なるほどな」  アピアンは腕を組んだままもっともらしくうなずいてみせたが、内心の苛立ちは消えなかった。 「我々は小国だ。薬物が政務に関わる階層に、知らぬ間に害をおよぼしてからでは遅い」 「ええ、ですから」 「おまえは遊んではいなかった、仕事をしていたというわけだ」  皮肉っぽい口調はとめられなかった。アピアンは一歩前に出た。セルダンの眸をみつめ、その顎に両手をかける。 「私がくだらない夜会で無為に時間を使っていたあいだにな」  セルダンは眉をひそめ、わずかに体を引いた。アピアンは見逃さず、騎士の顎にかけた指の力を強めた。指の腹でセルダンの伸びかけの髭を感じる。苛立ちと皮膚の下のざわつきがさらに大きくなる。 「おまえはいいな、レムニスケート。王国の現在に関わる任務があり、それをまっとうすることができる。来るとも思えない未来のためにご婦人方に愛想をふりまく私とちがって」  セルダンの顎が動いた。 「殿下。あなたこそが王国の未来です」 「私が子を作れば、だろう」  アピアンは騎士の首に指を回した。 「陛下は何につけてもまず結婚してから、が口癖だ。実際、いまの宮廷で私が政務に関わる余地も必要もない。この国の王族や貴族階級もそうだ。陛下のように私が誰かを選ぶと期待している――そうにちがいないと思っている」 「選べばいい」  セルダンがいった。喉に指をかけられているせいか、声がくぐもって聞こえた。 「きっと、あなたの心に叶う方がみつかりますよ」 「心に叶うか」  アピアンはつぶやいた。口の中に苦い味がした。 「ご令嬢方もいろいろだ。自分の意志で選べる者、望まれれば断ることなどできない者もいる。単なる時間つぶしの興味もある。私が選ぶだと? 逆だ。私は品定めされる側だ。セルダン、気がついたか? この国の一部の魔術師は王族を操っている――いや、操るというほどのものではないか。暗に影響されているのに気づかないだけだ。彼らは精霊魔術から心を護る方法を知らない」 「ですがそれは我らの王国の――いえ、王家の血統によるものです」  セルダンの視線がやっと、アピアンのそれと絡みあった。 「かつて戦争があった」アピアンは静かにいった。 「わが王国はわが王国でいつづけるために、この血が必要らしい」 「ええ。だからこそ、小国であっても我々はこうして……」 「国を治めるにはいろいろなやり方がある」アピアンは手の力をゆるめた。 「実際、精霊魔術に無防備でもここはうまくやれているようだからな。第一、あれだけ一族が多ければ……」 「殿下」  セルダンがささやいた。突然アピアンは騎士の匂いを意識した。革、かすかな酒精、草のような香り。私は思ったより酔っているのかもしれない。 「あなたは何を恐れているんです?」  アピアンは唾を飲みこんだ。セルダンの視線が動いた。 「陛下は早く子をなせというが、私は――」  セルダンは黙ったままアピアンをみつめている。この男の沈黙は雄弁な催促だと、アピアンは苦々しく思った。 「私は経験がない」 「そんなことは」セルダンがふっと息を吐いた。 「問題にはなりませんよ。大丈夫です」 「笑うな。おまえはわかってない」 「笑ってなどいません、俺は……いや、心配などいりません。そんなことはその時になれば何とかなるものです」 「なるものか」  アピアンは目を伏せ、両手をおろした。 「おまえはいい。誰でも――女たちもあしらえるようだ。私はちがう。誰が相手にせよ、もし……」 「アピアン」  名を呼ばれた。この男はめったに私の名を呼ばないのだが、とアピアンは思った。父王に名を呼ばれると緊張するのだが、セルダンに呼ばれるのは心地よかった。  心地よすぎるのはよいことではない。秘密を暴かれてしまうから。  子供のころから体にしみついた警告を無視してしまったのは、酔いのせいか、疲労のせいか、「夜の蛍」のせいなのか。 「セルダン、おまえは私がどんな夢をみるのか知らない」 「夢?」  視線を上にあげるとセルダンの眸がまっすぐ見下ろしていた。アピアンは息を吐いた。 「おまえに抱かれる夢だ」
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