12.歯車の軋み

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12.歯車の軋み

 夜が明けたとき、彼は覚えているだろうか。  アピアンの居室の扉をそっと閉めてから、セルダンは自身の身じまいと整頓のために浴室へ戻った。王子が覚えていようがいまいが、このままの状態を従僕や館の者にみせる必要はない。  冷静かつ妥当な判断のはずだったが、長椅子の周囲に散らばった衣類をひろい、あたりをととのえているうちに、頬に血がのぼってきた。  アピアンがこの場所でさらけだした言葉に嘘はなかった。王子は酔っていて無防備で、彼の体も……  ああ、まずい。  背筋がそそけ立つほどの幸福感と共にセルダンは身震いした。何年も想い続けた相手が自分とおなじことを望んでいたなんて、これ以上の幸福があるだろうか。にもかかわらず、これでよかったのかという思いは拭い去れなかった。  もうひとつ、気になることもある。  セルダンは小さな吸殻をつまみあげた。アピアンが放置したまま忘れてしまった「夜の蛍」の紙巻だ。無害な、どこにでもある紙巻にみえた。形だけなら王国の警備隊が摘発したものには似ていない。どんな効果、あるいは副作用があるのか、王国の魔術師に調べてもらわなければ。  自室に戻りながらセルダンは小さくため息をついた。王子にとってはどうだったのだろう。朝になれば「夜の蛍」の副作用ですべて忘れてしまうのかもしれない。たとえ覚えていたとしても、レムニスケートである自分はこの先どんな風に彼に接すればいいのか。何があろうとも「王子の友人」であることに変わりはないが、それにしても……。  アピアンは気づいたかどうか。セルダンは主君の肌に所有のあかしを残さないよう、細心の注意をはらったのだ。  王子の覚醒はいつになく心地よいものだった。  最初にみえたのは天蓋の薄布からさしこむ朝の光だった。目をあける直前まで幸福な夢をみていたような気がしたが、内容は思い出せなかった。それでも頭はすっきりとさえわたっている。夜会の翌日は起き上がるのが億劫なほどだるいのがふつうだから、こんな気分は珍しい。  起き上がろうとしたとき、体の違和感に気がついた。  きのう――夜会から戻って……  はっとしてアピアンは夜着をかきわけ、とたんに昨夜の出来事が頭を横切った。手首や胸をなぞる他人の唇と指――セルダンの唇と舌と、のびかけた髭の感触……。 「私は」  体を起こしたときの下肢の違和感がぼんやりした記憶を裏書きした。たしか――夜会から戻ってもセルダンがいないことに腹を立て、戻ったら来るようにといいつけたのだ。そしてセルダンが戻って――その後どうしてこうなったのかがはっきりしない。だが私は――  そうだ、私はセルダンに告げたのだ。何年も隠していたことを……彼はこたえてくれた。そして…… 「殿下、失礼します」  従僕が扉をあける声にアピアンはびくっとしたが、動揺は天蓋の薄布で隠されてしまっただろう。召使はアピアンが起きていることに驚いたのかもしれないが、ほとんど表情に出さなかった。いつものように水差しを運び、朝の準備を整えている。この国の王侯貴族に仕える者たちは、主人が夜会の翌日は朝寝坊だときめこんでいる。  アピアンはそろそろと天蓋をかきわけ、身支度をした。柔らかい肌着が胸や下肢に触れるたびに昨夜の記憶がよみがえる。朝の着替えに召使の手を借りないことにしていてよかったと、心の底から思った。  階下へ食事にいくと、出迎えたのは執事ひとりだった。 「セルダンは?」 「出かけられました。お国の魔術師の方々と重要なお話があるとのことです」  穏やかな返答にいささか肩透かしをくらった気分になる。王子は階段を降りながら、騎士に会った時どんな反応をすればいいかと多少思い悩んだのだ。 「そうか。ありがとう」  手短に食事をすませると、アピアンは騎士を探しに行った。  セルダンは治療師たちが滞在する建物の中庭にいた。  治療師の淡い灰色のローブと回路魔術師の暗色のローブのあいだに大柄な体躯がすっと伸びている。並んだ円卓と椅子はこの国の治療師の指導をするために使われていたから、いつもは臨時の教室のような趣きがあるのだが、騎士がひとりこの中に立っていると、ずいぶん印象が変わって見えた。 「これではたしかに紙巻と区別がつきませんね。匂いもよくわからない」 「成分を抽出するには……」  セルダンはこちらに背を向けている。魔術師たちは王子の存在に気づいているが、話の最中のセルダンは気づいていない――あるいは気づかないふりをしているのか。アピアンは騎士の声に耳を傾けたが、「夜の蛍」という言葉によって即座に話題を理解した。同時に昨夜の記憶が軽い衝撃とともにまたよみがえった。そうだ、これがきっかけだった。 「セルダン、私も話を聞こう」 「殿下」  ふりむいた騎士の眸にうごいた感情をアピアンはつかみそこねたし、周囲には魔術師たち――とくに精霊魔術を使う治療師が何人もいる。昨夜聞いた話を思い出しながらアピアンは彼らのあいだに座り、先をうながした。治療師のひとりは「夜の蛍」について王国で調べたこともあるという。アピアンはしばらく耳をかたむけ、やがて、審判の塔で見聞きしたことなどもふまえて議論に加わった。 「夜の蛍」と呼ばれる、効き目のことなる薬物――練り香のような形をしたものから昨夜アピアンが吸ったような紙巻まで――の中心となる成分は、近年この国の海岸沿いに自生するようになった草の未熟な種から抽出された。植物自体は大陸から持ちこまれたものらしい。成熟するまえの種の外殻から染みだす液体は鳥を誘引するが、この種は二重の殻をもっている。鳥に食われても内部の殻は消化されず、逆に鳥の腹の熱で成熟するという。鳥しか棲めないような海中の島や海岸沿いの荒地で増えているが、いまのところ、人の手で栽培するのは成功していない。  この国の海岸沿いはロア王の宮廷とはあまり近くない中小の貴族の領地がひしめきあっている。土地も痩せており、大陸の文物の輸入でうるおっているわけでもない。一方「夜の蛍」はアピアンの王国にまで流通している。そうなるとかなりの規模で精製と加工がおこなわれているはずだ。  そういった情報をもたらしたのはまだ若い回路魔術師で、アピアンはうなずきながらその話に聞き入った。魔術師たちはすっかりこの国に慣れたようだ。治療師と回路魔術師は王国ではそれほど近い印象をうけないが、ここではたがいの長所をうまく生かしているらしい。  ひとりの治療師は海岸沿いの施療院へ派遣されることが決まっていた。回路魔術師もひとり、商業ギルドの依頼で海岸都市へ行くという。大陸との交易の最初の窓口だ。アピアンは王国との連絡を絶たないように念を押した。気になることがあれば直接書簡を送ってもかまわないと告げると、めずらしいことに治療師まですこし驚いた表情をみせた。  ひととおり話がおわると午前のなかばを過ぎていた。いつのまにか座の中心はアピアンになっていて、セルダンはときおりアピアンにものいいたげな視線を向けてくる――と思ったが、気のせいだったのかもしれない。魔術師たちのもとを立ち去ってふたりで王宮の方へ向かうあいだも騎士は黙ったままだった。  わずかに遅れてついてくるセルダンの体躯を意識するたび、アピアンの背筋に緊張が走った。この腕に昨日――と思うだけで胸のうちが熱くなるが、セルダンの表情は変わらない。  彼にとってはどうだったのだろう、とアピアンは考えた。近くにいるとよりはっきりと記憶がよみがえってくる。「夜の蛍」は健忘をもたらすこともあるとさきの話には出たが、アピアンの場合は関係なかったようだ。たいして吸いこまなかったためか、紙巻のものは成分にちがいがあるのか、それとも体質の問題だろうか。  しかし、長年知られないように隠していた性向を明かしてしまった原因に「夜の蛍」が関わっていないとはとうてい思えなかった。うっかり思い出すと赤面しそうだ。それに昨夜のセルダンのふるまいはずいぶん……手慣れていた。  アピアンの思考はめまぐるしく動いた。黙っているのは、後悔しているせいかもしれない。慣れているというのは……自分の知らない相手がいるのかもしれない。この友人にそんな相手がいておかしくないとずっと考えていたのではなかったか。てっきり異性だと思っていたが、ひょっとしたら……  そう思ったとたん、暗い雲に覆われるように心が重くなった。異性の相手がいるのでは、などと思っていたときはついぞ感じなかった気分だ。  このまま黙っているともっと余計なことを考えてしまうだろう。アピアンは意を決して口をひらいた。 「セルダン、私はそろそろ王国へ戻るつもりだ。これからロア王へ話す。陛下には夜の蛍についてたずねたいこともある」  セルダンは一瞬とまどった表情をみせたが、短く答えた。 「――はい、殿下」 「おまえはまだここにいたいか? 騎士団長の任務があるのなら、私ひとりで戻ってもいい」  セルダンの表情がはじめて大きく動いた。焦らせるつもりはなかったのに、そんな顔をみるとアピアンの胸は浮き立った。このように心が揺れるのも愚かで子供っぽい反応にすぎないのだろう――とも思えたが、期待していた通りのセルダンの返事には結局のところ安堵した。 「まさか。俺はあなたの護りです」  意外なことにロア王は「夜の蛍」について何も知らなかった。  これはこの国の大きさと、政体のちがいにもよるのだろう。他の王族には知る者がいても、いまだ末端の些末な問題としてロア王の耳にまで入れていなかったらしい。  しかし「夜の蛍」の出所が元をただせば海岸沿いにあることを告げると、ロア王はがぜん興味をひかれたようだった。海岸一帯の弱小領主たちはこの国で何度も内紛の原因となっていたから、当然だろう。 「良い眼をしているな」  ロア王は初めてアピアンに会ったようにしげしげと見返した。 「なるほど、月日が経つのは……いや」  何かいいかけて言葉を濁したのはロア王らしくなかった。 「戻るのは国が恋しくなったからではなさそうだが、滞在はどうだった。退屈じゃなかったかね? 率直にいってみよ」  しかしアピアンの頭に浮かんだのはまたも昨夜の出来事だった。その前に見聞きした物事は記憶の片隅に追いやられてしまったらしい。 「若輩の私には得るものの多いひとときでした」  やっとそれだけ答えるとロア王は「堅いな、堅い」とつぶやいたが、それ以上は追求しなかった。  魔術師たちを残しての帰国は来たときよりも格段に早かった。セルダンとアピアン、それに下僕が加わっただけのこじんまりした旅である。  人数が少ないのだから前よりも親密な雰囲気になるだろうか――と、アピアンはすこしだけ期待していた。だがセルダンの態度は往路と変わらなかった。それどころか逆に距離をとられているように思えるときもあった。行きと同じように馬をならべて道を行くときも、途中の宿でもセルダンは寡黙で、目と目で話すようなこともめったにない。  いや、ひょっとしたらアピアンの中に芽生えた期待がそう思わせるのかもしれない。あんな夜を過ごした後なのだから……と思うのは、まちがっているのか。それともセルダンの方こそあれを忘れてしまったのか。いや、そんな馬鹿な。  私が酔って一時のあやまちを犯しただけだとセルダンは考えているのかもしれない。では自分から働きかけるべきなのか――と、アピアンの心は千々に乱れた。  私はまた、馬鹿げた夢をみてしまったのかもしれない。  帰国の日程は治療師から王宮の魔術師に伝えさせていた。数週間ぶりの王都は隣国の宮廷や政務庁の大きさに慣れた目にこじんまりとしてみえたが、道をいく人々の顔には親しみがあり、回路魔術で防備された王城には安心感があった。  アピアンはロア王から預かった書簡を父王に渡し、問われるままに話をした――どんな毎日を過ごしたか、誰と会い、どんな話をしたか。王が望んだような収穫を持ち帰れなかったことはわかっていた。とはいえ「夜の蛍」が今後どんな影響を及ぼす可能性があるかや、派遣した魔術師たちが王国にとってどんな働きをしてくれそうかなど、ここ数年のあいだ審判の塔で経験した事柄を下地に王へ話すことはできた。 「陛下が名代としてくださったおかげでよい経験ができました。セルダンも頼りになりましたし」 「レムニスケートの忠誠は王家の誉れだ」  父王は目を細め、離れていたあいだに下された決定を告げた。セルダン・レムニスケートを王宮付きの近衛騎士に任命することにしたという。アピアンは揺れる胸のうちを押し隠し、父王の前を辞した。
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