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虚無への分岐点
酒が好きだった。とはいえ、ビールは飲まない。もっぱらハードリカーばかり飲んでいた。
若かった。俺はまだ二十代半ばだった。夜な夜な仕事帰りにバーをはしごする。食事は連れがいることもあったが、飲む時は大抵一人だった。その方が落ち着いた。誰かと会話をするでもなく、じっと酒を飲む。アルコールの酔いが程よくまわってくる感覚。それが好きだった。
いつのように、バーで飲もうと店に向かっていた。その時ふと、目についたものがあった。うらぶれたビルの下にバーの案内板が立ててあった。何故かその日はその案内板に惹かれ、ビルの中へと吸い込まれていった。バーはビルの三階にあった。もっともそのビルは三階が最上階で、一階、二階はテナントが入ってないのか、なんの明かりも灯っていなかった。ひっそりしたビルの中で暗くて重い扉を開けると、店内もまたひっそりしたカウンターバーだった。
初めて入ったバーだったが、いつものようにシングルモルトをダブルで注文し、ちびりちびりと飲み始めた。バーのマスターらしき中年の男もなんら話しかけてこない。それは良かった。時間が早いせいか客は俺一人だった。
それから、ほどなく酔いがまわり始めた頃、カウンターの端に女が見えた。その女にも連れがいないようだった。いつの間に来た客だろう。全く気付いていなかった。女の他にはやはり客は俺一人。流行ってない店であるのは間違いない。そう思った。
女は長い黒髪に切れ長の目をして、細面の顔が艶やかだった。身体にややフイッタする細身のワンピースがスタイルの良さを際立たせていた。じっと、観察をしているかのように女の方を見ていたら、視線を感じたのだろう。女と目があった。ぶしつけな視線を投げかけていたバツの悪さを隠そうと、目をそらそうとしたら、女の方からにっこりと微笑みを返してきたのだった。
その微笑みが、俺を変えた。いや俺の人生、生き方そのものを変えた。
「いいのか。本当に」
「何言ってんの。いまさら。良くなかったら、今ここにいないわ」
「ああ…。そうだね…」
「おしゃべりは、苦手よ。さあ、早く…」
俺は、女とホテルにいた。誘ったのは俺か、女か。どちらともなく成り行きだったか。気が付けば、またバーと同じようなうらびれたホテルの部屋に女と向かい合っていた。まあいいだろう。目の前にいる女は若く、といっても俺よりは少し年上の感じがした。それでも、魅力的な女に違いない。脱がすとそれは確信に変わった。着衣していた時に隠されていた女の裸身は、完熟前に赤みを帯びる寸前の果物を感じさせた。身体から甘い香りが漂ってくるようだった。弾力のある胸に触れると、柔らかく包み込まれ、俺の身体は女に吸い込まれていく。至福のときだった。やがて意識はそこでぷっつりと途切れてしまった。
気が付いたとき、俺はベッドの中だった。女はいない。それにしてもここはどこだ。ホテルにしては、おかしいな。明るすぎた。
「目が覚めましたか」女だ。
「君は…?」違う。白服を着ているし、妖艶さがないぞ。俺は何が何だか分からず、ベッドから起き上がろうとした。だが身体中痛くて、起き上がれなかった。
「まだ、起き上がれませんよ。無理しないでください。気分はいかがですか」
「気分はって。ここはどこ…」
「病院ですよ。あなたは意識不明の重体でこの病院に運ばれてきたのです。もう、三日前ですけど。外傷は特に見当たらなかったのですが、全身に打身があったようです。それが痛むのでしょう。他に、何ら病的症状がないにも関わらず、ずっと意識が戻らなくて、眠っておられたような感じでした。私どもも、どう対処したものか、あなたの名前も分からず、家族の方に連絡をとることも難しくて困っていました。警察に連絡しましたが、事件のようなものはこの近辺で、なにも発生していないようでした。だから、目を覚まされてよかったです」
「病院…。君、いやあなたは先生?」
「はい、担当医の吉川です」
「よ、吉川先生、ですね。ぼくに連れはいなかったですか?女性ですが」
「いえ。だれも。女性のかたとご一緒だったのですか」
「一応…。まあ、それはいいです。ぼくはどこでだれにこの病院に連れてこられたのでしょう?どうして、身体中、打身があるのか記憶にないのです」
「まったく、記憶がないのですか」
「はあ」
「あなたは、この病院から少し離れたところにあるビルの近くに倒れていたのですよ。匿名の救急連絡があったようです」
「匿名の連絡?女性でしたか…」
「さあ。そこまでは」
「ビルの近くって、そのビルはバーが入っている三階だてのビルですか。うらぶれた感じの?」
「うらぶれたビルかどうかは知りませんが、ビルは三階だてでバーが入っていたところですね。でも、そのバーは数年前から営業していなくて空きテナントだったはずですよ」
「営業していない…」
「さあ、また少し休んでくださいね。一気に起き上がるのはだめですよ」俺は三日前から医者が処置した点滴のみで生き長らえていた。その間、目を覚ますことなく…。
俺は何が何だかわからなかった。女とホテルに行ったのは幻だったのか。それにしては、女に触れた感触が生々しく残っているのだった。
病院に真実を言っても、取り合ってもらえないだろう。俺が行ったというバーは存在しないらしいから。バーで飲んだシングルモルトの味、香り、それも幻。そう言い聞かせるのが無難なのか。じゃあ、なぜ、俺は意識を失う重体になるのだ。病院に運ばれたとき、アルコールは検出されていないようだった。酔っ払い、そう、急性アルコール中毒ではないのだ。じゃあ、やはり飲んでいない?アルコールが残っていなかったのは、思うほど飲んでなくて、女と過ごした時間の経過で飛んでしまったのかもしれない。
それにしても、、だ。俺は独りごちて悶々としていたが、答えは見つからなかった。病院の医者も俺の話の「おかしさ」を追求してこなかった。誰も気にしやしない。それでいいのだろう。俺の存在はちっぽけだ。でも、一人の人間として生きているのだ。虚しかった。だが、その虚しさに救われることもある。それが人生というものだ。
俺は二十代半ばで虚無を悟ることとなった。
現在の俺は、中年だ。人生は投げやりで日々、ルーチンをこなすことで生きている。そのルーチンさの中に、一応仕事がある。野心も野望もない俺だったが、安定した仕事に就いていた。だからか、妻も子もいて、傍からみれば、一般的な家族持ちに見えるだろう。結婚なんてどうでもよかったが、流れるように結婚し、その妻との間に一人子をもうけた。子は中学三年、来年受験で塾へと忙しく家で会話はほとんどない。女の子だから会話がない方が助かる。妻に対しても、特に愛情を持っているなんて実感はない。ただ、つまらなさそうに会社に行き、つまらなそうに帰ってくる俺をいつも暖かい食事を作って待っていてくれるのは有難かった。そんな妻を足蹴にはできない。だが、妻のために何かをする、なんて感情がわいてこないのだった。
退院後、しばらくして俺がバーに行ったはずのうらぶれたビルを見に行った。すると、工事中でビルは解体される途中だった
「ここにあったビルは壊されるのですか」近くにいた手すきらしい工事人に尋ねた。
「ああ、みりゃわかるだろう」
「そうですね」
「あんた、このビルの関係者?」
「い、いや。違いますけど。まあ、近い者です」
「そ。それなら知ってるよね。この化け物ビルを壊す理由」
「えっ。化け物ビル?」
「なんだ。知らないのか。あんた、新しく建てるビルに入る予定のテナント関係者じゃないのか」工事人は、俺を勝手に関係者と、勘違い解釈をしていたようだった。
「はあ。ですが、この土地には不慣れなもので…」俺は工事人の勘違いに乗って話し続けることにした。
「ふん。このビルのオーナーは儲けることにあまり熱心じゃなくてね。まあ、こんなおんぼろビルより、もっと稼げるビルをいくつか所有しているらしいから。どうでもよかったのだろうな。うらやましいことさ。だけど、このおんぼろ、入ったテナントはことごとく潰れるわ、死人は出るわで、周囲から気持ち悪がられていたのさ。で、やっと立て替えて綺麗にする気になったらしいよ。今度は、バーとかではなくもっと健全なテナントを入れるって話。バーは不健全なのかね」
「死人がでるって…」
「そうそう、数年前に潰れたのでけど、当時三階にあったバーで女が死んだんだよ」
「殺人…ですか」
「違う、違う。急性アルコール中毒さ。連れもなく、一人で飲んでいたらしい。マスターが気づいたときには遅かった。当時は客が立て込んでいたらしいから。救急車で運ばれた時にはもう手遅れ。それからしばらくして、バーは寂れ、やがて店を閉めた。他のテナントも流行らなくなって出て行った。女を疫病神みたくいうやつもいるが、それは違うだろ。このおんぼろには何か憑りついてるのさ。ああ、身震いするぜ」
「そんなことがあったのですか」
「わしがこの話、しゃべったって他に言わんでくれよ。新しいビルに入るテナントにはクリーンな話で押し通すらしからな。兄さんは、なんかあやうい感じだったんで、ちゃんと話しておいたほうがいいなとおもってよ。じゃ」そう言って工事人はまた作業に戻っていった。
俺は、毎日ありきたりで生きている。仕事帰りに酒を飲み行くことはない。今ではもう飲むことに楽しみを見いだせないのだ。それでいい。人生の分岐点は「幻」の女が与えてくれた。そう思うようにしていた。
妻が作ってくれる暖かい食事。それだけは虚無ではないのだから。
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