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事故現場
恐怖体験ですか……そう言われましても、うーん……何しろ、私、霊感というものが全く無いんでね。ええ、所謂ゼロ感ってやつです。だから幽霊なんて見たこともないし、声も聞いたこともないんですよねえ。すいません。
まあ、ぞっとするような思いをしたことなら、一つくらいありますけどね。でも、別に幽霊を見たっていう話じゃないんですけど……いいですか。
その日、私はどうしても外せない用事があって、自宅のある駅から二駅ほど離れた町に行きました。そこを訪れるのは本当に久しぶりだったのですが、ともかく用事を済ませた後、大きな街道沿いの歩道を駅に向かって歩いていると、遠目に何か見慣れないものが見えてきました。よく見ると、歩道と車道の境目あたりに、誰か人間がうずくまっているように見えるのです。
段々と近づくにつれ、一人の初老の男性がしゃがみこんで、じっと手を合わせているのが見えてきました。彼の傍には水を満たした大き目のペットボトルがあって、花束が挿してあります。簡単な一輪挿しじゃなくて、ちゃんとした仏花のようです。
誰かがここで事故に巻き込まれて亡くなって、故人の関係者の方が手を合わせているのじゃないか。そんな風に思いました。
はたして、手を合わせる男性の近くには、大きな立て看板が立っていました。
“目撃者を探しています。
平成29年2月8日午前1時頃、この場所で、人と自動車の轢き逃げ事故が発生しました。心当たりの方、この事故を目撃された方は、左記までご連絡ください。”という文言と共に、所管の警察署と担当部署の電話番号が表示されていました。
この男性は、轢き逃げで亡くなった人の関係者なのかな……手を合わせている彼の全身から、その深い悲しみの念がこちらにも伝わってくるような気がしました。
私は、何故かそのまま立ち去りにくいものを感じて、彼の傍で足を止めました。すると、男性の方も、立ち止まった私の気配を察したのか、お祈りを中断して、こちらに向けて顔を上げました。私が何となく会釈をすると、立ち上がり、丁寧にお辞儀を返してくれました。
ふと事情を聴きたくなった私は、思い切って声をかけてみました。
「どなたか、ここでお亡くなりになったのですか?」
「はい。私の女房です」
どこか疲れたような低い声で男性が答えました。
「それは、どうも……お気の毒なことで」
「ご丁寧に有難うございます」
男性はもう一度深々と一礼しました。
「女房はここで轢き逃げされて死んだんですが、本当は私のせいで死んだようなものなんです。もう、あれから三年が過ぎましたが、未だに悔やんでも悔やみきれません」
悲し気な表情をしながら、男性は話を始めました。
「あの夜、女房はコンビニに買い物に出たんです。夜中に小腹がすいたと言った私の為に、それじゃあ、自分も買いたいものがあるからついでに買ってくるといって、家を出ました。そして、その帰りにここで……車の方は相当なスピードを出してたみたいです。殆ど即死でしたから」
男性はどこか虚ろな目つきで道路の方を見やりました。
「あの時、なんで自分も一緒に行こうと言わなかったんだろう……そもそも、自分が小腹がすいたなんて言わなかったら、女房だって、自分の買い物も明日でもいいからと、あんな時間に外出なんかしなかったろうに……だから、あいつは私のせいで死んだようなものなんです」
幽かに震える男性の声は、彼が今も深い悲しみと後悔を抱えながら生きていることを物語っていました。
「それ以来、月命日には、いつもここで花を供えているんです。特に女房は花が好きだったから……」
かける言葉もなく、私はただ頷きながら、男性の話を聞いていました。
「でもね、ここに来るのが私にとって、楽しみでもあるんです」
「楽しみ、ですか?」
「はい。ここに来ると女房に会えますからね」
「奥さんに会える?」
一瞬、私には彼が何を言っているのかわかりませんでした。
「はい。彼女はいつもここにいるんです」
やはり、彼の言葉の意味は理解できません。
「ほら、そこに女房が立ってます。見えませんか?」
薄ら笑いを浮かべながら、男性はすぐ目の前の車道の一点を指さします。ですが、勿論何も見えません。私はだんだん、彼の言葉に薄気味悪さを覚え始めました。
「ほら、こっちを見てるでしょう……恨めしそうな顔で……ああ、でも懐かしい。恭子、また会えて嬉しいよ……ひひ……いひひひひひ……」
引きつるような笑顔を浮かべながら、耳障りな声で彼が笑い出した時、私は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に襲われました。笑い続ける男性を残して、私は逃げるようにその場を後にしたのです。
いやあ、本当にあの時はぞっとしましたね。今思い出しても、背筋が寒くなります。
え?いえいえ、そうじゃないんですよ。その男性の様子に怯えたわけじゃないんです。
轢き殺された女性の霊が恨めしそうな顔で、こっちを見ている……その言葉にぞっとしたんです。何も見えないからこそ、余計に怖かったです。
だって、あそこで轢き逃げをしたのは、私なんですから……
[了]
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