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タツが外側から施錠すると、瞬時に薄暗い蔵の中へと戻される。
「終わっちゃったな、散歩」
二階から外の景色を眺めていると、空が茜色に染まり始めた。窓のすぐそばにある楠が不自然に葉を揺らした。
「こんにちは」
どこからか子供の声が聞こえてくる。キョロキョロと階下を見下ろすと再び聞こえた。
「こっちだよ、木の上にいる」
視線を楠の大木に移すと、自分と同じ歳くらいの少年が窓より少し低い枝に跨がっていた。
その姿を見たとき、あっと声を上げそうになった。大声を出すな、里の者に見付かったらどうしてくれるのだと言われて育ってきたから、すぐに口に手をあてた。
密だって鏡くらい見ることはある。時々確認する自分の姿は血の気のない真っ白な顔をして、表情もさみしげな子供だ。
楠に跨がる子供の顔は、自分も太陽のもとで育てばこんな風になるのだろうか、と思えるほど密に似ていた。
きっと毎日取り替えているのだろう、染み一つない着物に艶のある血色のいい頬。好奇心いっぱいの瞳はきらきらと輝き、背丈も密より高そうだった。
「き……きみ、どこから来たの?」
「この山の麓から。きみこそ、ここにずっと住んでるの? 蔵の中は寒そうだけど、平気なの?」
少年は密を質問攻めにする。
「平気じゃない。この頃、朝なんてすごく冷えて寒いよ。でも仕方ないんだ。俺が外に出ると、悪いことが起きるって言われてるから」
何度も父母に繰り返された言葉を告げると、驚きのせいか裏返った声が聞こえてきた。
「そんなこと信じてるの?」
密は俯いた顔を上げた。父母に説法のように教え込まれ、今まで疑問を感じることすら許されなかったことだ。
「だって、父さまや母さまが言ってる。俺は忌み子だって。半分死んで生まれてきたから、縁起が悪いんだって。だから……」
「密」
名で言葉を制されて、密は身体をこわばらせた。
「そんなの迷信だ。文明開化から何十年も経った時代に、そんなことを実の子に言い聞かせる親のほうがどうかしてる。密はどこにでもいる、普通の子供だよ」
「……」
「会ったばかりだけど、信じて。僕は密をずっと探していた。密は悪いことなんてなにもしていないし、この蔵から出ても、悪いことなんて起こらない」
密のいる窓が少し高い位置にあるため、少年は身体を乗り出して密に語りかけた。まっすぐな視線と態度から、その言葉はタツと同じように密を案じてくれているのだと伝わる。
「そうだ、珍しいものを持ってきてるんだ」
懐に手を入れ、少年は懐紙に包まれたなにかを取り出す。近くの小枝を折ると、その先端に懐紙を乗せ、「取って!」と密に近付ける。
鉄格子のあいだから手を伸ばして受け取ると、中にはつやつやと光る茶色い固まりが数個あった。まん丸だったりサイコロのように真四角だったり、上に金箔が乗っていたりした。
「なに? これ。茶色い餡子? それともおもちゃ?」
「あげる。お菓子の一種だよ。洋行帰りの叔父さんがくれた。チョコレートっていうんだ」
「ちょこれいと……」
初めて聞く菓子の名を復唱する。
「そう。囓ってもいいけど、口の中に入れておくとゆっくり溶けるんだ。甘くて美味しいよ」
「……ありがとう」
ぎゅ、と懐紙を握る。
「あ、その菓子は熱に弱いんだ。人肌に温めると溶けちゃうから、気をつけて」
「えっ。ほんとう? そんな食べ物なんてあるの?」
なにしろ初対面だ。もしかして、あまりにものを知らない密をからかおうとしているのではないか。
「熱に弱いから、口の中くらいの温度で溶けるんだ」
「そ、そうか」
納得のいく説明に少し頬を染め、すぐにあることを思いついた。親切なこの子供に、なにかお返し出来るものがあればとあたりを見廻すと、散歩で拾った楓の葉が視界に入った。
「きみ、この葉っぱいる? 今日、拾ったんだけど」
格子越しに楓の葉をひらひら揺らすと、少年は身を乗り出した。
「でっかい! なにそれ、顔くらいある。まるで天狗のうちわだ!」
思った以上の食いつきに「じゃ、じゃああげるね」と手を差し出した。少年が再び枝で受け取ってくれようとするが、さっと吹いた風に煽られ、楓の葉は地面に向かってひらひらと落ちてしまった。
「あ。ごめん……」
「大丈夫。僕もう木から下りるから葉っぱを拾って帰るよ」
「う、うん」
そうだ、居場所を制限されている密と違い、この少年はどこへでも行けるのだ。あっという間にするすると器用に木を降りた少年は、密のはるか眼下で楓を広い、手を振った。
「またね、密!」
声が大きすぎる、と注意したくなったが、すでに少年は雑木林へと消えていた。
「はぁ。びっくりした……」
少年がいなくなると、いつものようにカラスの声だけが響く夕暮れの光景だ。
今の少年との会話は、実際の出来事だろうか。密が同じ年頃の少年と話したいと願って生まれた幻想ではないだろうか。
窓のへりに置いた懐紙に目が留まる。中をもう一度開けると、茶色い菓子がころんと現れた。ひとつ指で摘まみ口に運んだ瞬間、甘さと濃厚な香りに支配された。菓子の表面が溶け出し、酩酊しそうな甘さと独特の風味で口の中が一杯になる。
「なんだこれ。こんなの食べたことない……!」
菓子が淡雪のように溶けきってしまうと、ふたたび味わいたくなり懐紙に指を伸ばす。最後の一個を残して、あっという間に食べてしまった。
「今度会ったら、お礼を言わなきゃいけないな」
明るい子供だった。
天狗のうちわだといって喜ぶ顔が、太陽みたいにまぶしかった。それに、密と同じ顔をしていた。
鏡を覗き込むと、さきほどの少年と姿かたちはそっくりだが、ぼんやりとした表情の蒼い顔が映り込む。つくりは同じなのに、受ける印象はまるで違う。気が弱そうで陰気な顔だ、と自分の顔を見て思った。
「あの子が俺の弟……。響也か」
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