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「密、いるか?」
頭上から響也の声がした。いつものように蔵のそばの楠に登っているのだろう。
(響也!)
密は反射的に床に置かれた着物をひったくり、前をかき合わせた。
「ごめん、一階にいたんだ。さっきまで先生が来てたから」
「えっ、危なかったな。ごめん、これから声を掛けるときはもっと周りを見る」
そういえば、と響也が密を見上げ、指差した。
「教師が来てたんなら言うけど。密、髪の毛くらい梳(と)かせよ。ボサボサだぞ」
「!」
言われた瞬間、瞳から涙が溢れてしまった。双子の弟でさえ、密の置かれた状況を露ほども気づかない。密の苦しみや悲しみを、知る由もないのだ。
「……っ」
声もなく泣いていると、響也が慌てふためく。
「み、密っ? ごめん、僕、悪いこと言っちゃったのか?」
「……響也、今から俺が言うことを疑わずに聞いてくれ。どうして先生にこんなことをされるのか、自分でも分からないんだ」
密は、澤村にされたことをすべて話した。つかえたり、いやな思い出ゆえに途中で涙ぐんだりしたが、そのあいだ響也は神妙な顔をして聞いてくれた。信じてくれているのだと思えた。
「響也は大人からこんなことをされたことはあるか? それとも、世の中はこういうことが普通で、俺が変なのかな……」
「そんなことない!」
こちらが驚くような大声が響いて首を竦める。
「しっ。響也、声が大きい」
指を口元にあてると、響也が「ごめん」と項垂れた。
「そんなこと、村で見かけたことはない。少なくとも、お天道さまの下でしていいことじゃない。……密が嫌がるのも当然だ。僕だって好きでもない奴からそんなことされたら逃げるし、二度と会いたくなくなる」
その言葉を聞いて、密は体からへなへなと力が抜けてゆくのを感じた。―自分は変じゃない、普通の反応をしただけなのだと、他人に認められた。黒く光る床板に、涙の粒が何個も落ちてゆく。
「つらい思いをしたんだな、密」
「やめろ、そんなこと言うな。……涙が止まらなくなる」
言葉通り、密はしばらく泣いてしまった。そのあいだ、響也は黙って木の上から心配そうな顔をして見守ってくれた。はじめのうちは着物を手布代わりにして涙や洟を拭いたけれど、本格的に洟をかみたくなってしまった。
「ごめん、響也。一階に降りて塵紙で拭いてくる。帰ってていいから」
急な階段を降り、チーンと派手な音をさせ涙と洟を拭く。鼻水がたくさん出たからだろうか、頭がだるくて重い。
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