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「あれ……?」
気が付くと、足元に一筋の光が差していた。光の根元には大きな蔵の引き戸がわずかに開いていた。
(開いている……! 先生が鍵をかけ忘れたんだ)
急いで扉に向かい、裸足のまま体重をかけて片方を開けた。足を一歩踏み出すと、午後の秋の陽光が目に眩しい。密は初めて、自分一人でこの蔵から出たのだ。
次の瞬間、後悔した。さきほど響也に帰っていいと言ったばかりだった。
(まだそれほど遠くに行ってないかもしれない)
そう気思うと同時に、窓近くにそびえる楠に向かって駆けだしていた。ハアハアと息せき切って木を見上げると、上のほうの枝に、まだ響也がいた。土蔵二階の窓を見つめている。
「……響也? 俺だ、密だ!」
「密? 大声を出すなっていつも自分で言ってるのに……。どこだ?」
「下だ!」
背伸びしてキョロキョロと窓のあたりを伺っている響也がもどかしくて、また大声を出してしまった。
「密! 蔵から出る方法があったのか」
木から降りてきた響也がぽかんと口を開け、間抜け面をしている。そばに立たれると、以前思った通り響也のほうが少しだけ背が高かった。
「先生が鍵をかけ忘れただけみたいだ。こんなことは初めてなんだ。俺、だれも見張りを付けられずに歩けてる」
「密……!」
土を踏むシャリッという音が聞こえたと同時に、上半身を抱きしめられ自由が利かなくなる。
(あ……)
息が苦しいのに、なぜか人肌のあたたかさにホッとしてしまう。
(懐かしい。……なんだろう、安心する)
少なくとも、響也は密のことを思ってこんな行動をしているのだろう。人からこれほど思われるのはタツ以来かもしれない。
「う、うっ」と押し殺すような声がしたかと思うと、肩にポタポタと水滴が落ち、着物が濡れるのが分かった。
「なんでお前が泣くんだ?」
「ひとりで出歩くなんて当たり前のことに感動してる密を見てると涙が出たんだ。……ごめん」
「なんでお前が謝るんだ」
「だって、僕が当たり前だと思っていることは、密にとって珍しかったり、驚くようなことばっかりで。それに、大人に変なこともされているし」
そのまま、ぎゅうっと力を込めたまま離してくれない。さすがにあばら骨が折れそうだ。
「響也、苦しい。痛い……」
がばっと体を離され、密はケホケホと咳き込んでしまった。
「いやだった? ……教師にさわられて気持ち悪かったって言ってたもんな」
(気持ち悪い?)
密はさきほどの抱擁を受けたとき、温かいと思ったことを思いだした。澤村に無理やり迫られるのは不快でしかなかったが、響也に抱きしめられたときは愛情を感じた。
「響也と先生は全然違う。今のは嫌じゃなかった。単にお前の力が強すぎて痛かっただけだ」
自分よりも腕力のある弟を恨めしく睨むと、響也の表情はしおれていた花が開いたように明るくなった。
「よかった、密。……兄さん!」
ふたたび力任せに抱きつかれ、たたらを踏んでしまう。
「だから痛いって言ってるだろう!」
軽く頭突きをすると、「いたた」と響也が頭を押さえた。少し溜飲が下がったことは言うまでもない。
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