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そのころ海斗は宮原の後をついてY県の山道を登っていた。
もう少しもう少しと言われ続けて3時間ほどが経過したが、なかなか目的地へ着く気配がない。
もしかするとこれは新手の人さらいか何かで、海斗は油断した隙に一人取り残されるのではないか。
鬱蒼と茂る木々の間をぐんぐん進んでいく背中。
毎日座って書き物ばかりしているはずなのに、宮原は健脚だった。
「どうした、海斗くん。遅れてるぞ」
ゆうに180センチはある長身の男が振り返る。
自然にウェーブした茶色の髪が、木漏れ日に照らされて光っていた。
「だって、バス停からすぐだって言ってたじゃないですか」
疲れたと弱音を吐くのは気が進まない。さりとて嘘をつかれたことに苦情を言わずにはいられなかった。
「この辺りの人たちからすれば、ほんの近くだよ」
宮原は再び背を向け、細い山道を登っていく。
屁理屈だ、と反論する元気は出なかった。今はとにかく目的地へ向かうだけ。
高地へ行くにしたがって気温は少し下がる気がする。
それでも体中に汗が滲み、タオルで何度も拭った。
季節は夏。山歩きには最も適した時期といえる。
どこからか野鳥の鳴き声が聞こえ、清々しい山の空気を思わせる。海斗は呼吸を整え、歩くペースを上げた。
「見えてきた」
前方から宮原の声。
気がつくと登り坂だった道は平坦になっていて、確かに建物らしき影が見えた。
詳細は着いてのお楽しみ、などと都合のいい説明のみでノコノコついてきた自分の浅はかさを後悔した海斗も、ようやく一息ついた。
「疲れた?少し休もうか」
倍近く年上の宮原にそう言われては、休みたいとも言えない。
「大丈夫です。行きましょう」
宮原も汗はかいているものの、表情は明るかった。
少し先へ行くと、建物の全貌がはっきりしてきた。
外壁にはツタがからまり、その半分ほどは朽ちかけている。
「屋根はまだあるみたいだ」
宮原が上を見て言う。
木造の古い建物はかろうじて建っている様子で、いかにも長年うち捨てられている風情だった。
玄関へ回ると、ぼろぼろの戸口にはまっていたガラスは上半分が割れて素通しになっている。
宮原はためらいもせず引き戸を開け、中へ入っていった。
こわごわ後へ続いた海斗の目に飛び込んできたのは、まさに残骸と呼ぶべき光景だった。
二十数年前まで、ここは“せせらぎ荘”という名の旅館だったという。
玄関のつくりとしては、わずかな段差があり、右側にフロントというかカウンターのような台が作りつけられていた。
「ほ、ほこりっぽいですね」
窓があちこち抜けているのか、外から雨風の運んできたものが入り込んでしまっている。
既に床は元の色さえ分からない状態だった。
「とりあえず端まで行ってみよう」
宮原とてこんな廃墟へ来る機会は滅多にないはずなのに、全く怖じる風もない。これが年季というものか、と17歳の海斗は思った。
来る途中見せられた図面どおり、旅館はさほど大きくない平屋建てで、東西にまっすぐ廊下が伸びている。玄関はちょうど建物の中央に位置していて、東の端は大広間、西の端は一番広い客室となっていた。
ふたりは大広間を見てから引き返し、問題の客室へ足を踏み入れた。
「ここが……」
亡くなった浦田孝蔵の客室だった。
現場は室内ではなく、外にある木らしい。
宮原は三間に区切られた客室の最も奥へ進み、窓から外を眺めた。
「あの木みたいだね」
海斗も窓辺に並んで木を見る。
幹の太い、高さは3~4メートルほどもあるしっかりした木だ。
浦田孝蔵(56歳)は、その木の枝に首を吊っていた。
枝は地上2メートルほどの高さで、当時のまま、切り落とされたりはしていないという。
宮原は窓枠に手をかけ、足を乗せてそのまま外へ出た。
この窓もまたガラスが割れ、近辺に破片が飛び散っていた。
海斗が黙って見守っていると、宮原は外から窓の周囲を観察し、地面に視線を落としたまま木のほうへ歩いていく。
慌てて海斗も窓から外へ出た。
「宮原さん、もしかして」
海斗は最初、宮原のことを「宮原先生」と呼んでいた。
本当のことをいえば、「先生」どころか「様」をつけても足りないほど宮原を尊敬していたのだ。しかし宮原は「先生とだけは呼ばないでくれ」と、かたくなに拒絶した。
自分のような者が先生などと呼ばれても、逆にからかわれている気がするのだと。
宮原は、無言でしばらく梢を眺めていた。
が、飽きたように海斗に向きなおり、
「近くに川がある。寄っていこう」
と言った。
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