1 せせらぎ荘事件

4/10
前へ
/109ページ
次へ
どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。 絵に描いたような美しい自然。都会で暮らす者にとって、あの旅館は心安らぐ場所だったのだろう。 「浦田孝蔵は鳥が好きだったみたいでね、大きなレンズのついたカメラを持って、この辺りを歩いていたらしい」 旅館を見上げる位置に、あまり幅の広くない川が流れていた。 海斗が手をひたすと、水はとても冷たかった。 東京を出発したのは早朝だったが、もう日が蔭ってきている。 「さて、もうちょっと中を見ておこうか」 「あの、宮原さん」 「ん?」 もと来た道を引き返すのを引き留める。 身長差が10センチほどもあるせいで、かなり上目遣いになってしまう。 「あ、あのう、一泊するんですよねえ……」 「そうだよ」 「この近くに、旅館らしき建物が一切見えないんですが……」 キャンプというならしてもいいが、テントの用意もなさそうだ。 「旅館ならあるじゃない、ちょっと古いけど」 「じょ、冗談……ですよね……」 出会いの後、初めて自宅を訪れた海斗を宮原は快く迎えてくれた。しかし13歳の年齢差は埋めがたく、宮原は何かにつけて海斗をからかった。 「俺が今まで冗談言ったことあった?」 「いつもそうだから言ってるんですよ!」 海斗はまだ高校生で、世間のことも宮原ほどにはよく知らない。だから冗談の種にされたりするのは平気だった。 ただ昔なじみの太田さえも、宮原は変わった男だと認めていた。 「暗くなる前には現場を離れるよ」 何を言われても真実味を感じない。 そのくせ宮原が本気で話したことは、どんなに疑わしくても結局真実だと後にわかるのだ。 遠ざかる背中を追って、海斗は旅館へと引き返した。 川から一番近い客室の窓から中へ入る。 元は畳敷きだった部屋には土が積もり、割れたガラスやら、どこからか飛び込んできた木切れやらがあちこちに転がっていた。 足元に気を配りつつ廊下を歩き、露天風呂と書かれた看板に立ち止まる。 宮原がドアを開けて外へ出たので、海斗もつづいた。 渡り廊下が延びる先には、風呂と言われればそう見えなくもない石積みが姿を見せた。 この風呂に入ろうと言い出すおそれはない、と内心ほっとする。 「事件の前はこの旅館、結構流行ってたって聞いたけどね」 浦田孝蔵首吊り事件の資料を持っているのは宮原だけで、ついて来た海斗はおまけ以下だった。 海斗は今朝はじめて、長い列車での移動中、事件のあらましを聞いた。 「そうでしょうね」 適当に相づちを打つと、どこかからガサガサという物音が聞こえた。 「風呂はこのくらいにしよう」 宮原は音に気づかなかったのか、さっさと廊下へ戻っていく。 朽ち果てそうな床を踏んで進むと更に、ギシ、ギシ、と音がした。 「宮原さん、今、音が」 「音?」 「結構近かったような……」 辺りはだんだん暗くなっているようだ。 「帰りましょうよ」 怖いんだろうとからかわれても仕方ない。 ここはただの廃旅館ではなく、人が死んでいる場所だ。 何か怨念めいたものが、不気味な現象を引き起こしているかもしれないではないか。 「もうちょっと見ていこうよ」 「一通り見たじゃないですか。そろそろ日も落ちかけてるし」 「じゃあ海斗くん、もう浦田孝蔵の死の謎は解けた?」 「……いやそれは……」 口ごもっていると、宮原はまた早足で死者の部屋へ向かった。 この旅館はあと二週間ほどで取り壊されるという。 宮原に現場の調査を依頼してきたのは旅館周辺の土地を所有する人間で、かなりの資産家らしい。 宮原との関係は聞いていないが、「土地を売る前に事件の真相が知りたい」との話だった。 元々は土地も建物も、“せせらぎ荘”の主人が所有していた。 浦田孝蔵の首吊りがあった後、売りに出され、元の所有者はどこかへ消えてしまった。 当時は山奥の高級旅館だったというが、時の流れは残酷だ。 端の一番いい部屋でさえ土足で歩き回るしかない惨状で、昔の名残りを感じることはできなかった。 「浦田はいつも、この部屋を取っていたそうだ」 資料を見ながら、宮原は言う。 事件が起きたのはまだ日本の景気も良い時期だったが、旅館の経営は悪化していた。 客室や廊下などに置かれた高級な調度類が、その頃だんだん姿を消していったという証言もある。 「自殺ではないと警察が判断したのは、動機がなかったからでしたね?」 襖を開けると、布団や浴衣はなく、からっぽの押入れがあるだけだ。 「そう。そして、旅館の主人に殺人の動機があった」 浦田孝蔵は資産家で、せせらぎ荘を気に入り、よく利用していた。 経営が傾いていると聞き、自分で買い取ろうとしたらしい。 「清流が近くを流れ、珍しい野鳥も見られる。別荘がわりにして住もうという発想は贅沢だけど、悪くない」 ここまで山奥ならば、他の野生動物もわんさかいることだろう。と海斗は思った。 「動機はあるがアリバイもあった。浦田孝蔵が木の枝にぶら下がった時、主人は太鼓を叩いていたわけだ」 どういった趣向か知らないが、反対側の広間では直径1メートルほどもある大太鼓の演奏が行われた。 時間的にちょうど浦田孝蔵の死亡推定時刻と合っていたために、主人は罪に問われなかった。 「旅館の従業員はその日5人。客は7組。仲居がこの部屋に布団を敷き、出ていったのが夜7時。広間で客6組の食事どきに太鼓を聞き始めたのもその頃だ。食事に来ない浦田を呼びにきた仲居が、死体を発見したのが8時前頃」 犯行があったとすれば、時間帯ははっきりしている。 二人はまた窓から外へ出、例の木を見上げた。 「問題の枝は、自分で首を吊るには少し高すぎる。踏み台のたぐいも見つかっていない」 普通に考えれば、被害者の首を絞めて殺した後、木に吊るしたというところだろう。 しかし死体には、枝から吊るされたロープの跡以外に索条痕はなかった。 自殺か他殺かで初動捜査が混乱し、唯一犯行が疑われた旅館の主人のアリバイが完璧であったため、事件は迷宮入りした。 「宮原さんは、他殺だと言ってましたね」 「うん。追い詰められれば、人間ってのは色んなことを思いつくもんだ。現場を見たらはっきりしたよ」 建物と木の間は2メートル近く離れているのに、死体は靴を履いていなかった。 「じゃあ、そろそろ引き上げようか」 「あっ、えっ?……はい」 二回目の捜索はどうやら海斗のためになされたようだ。 位置的には探偵の助手、のはずなのだが、なにか答えを見つけないと馬鹿にされそうな雰囲気だ。 「ちょっと下ると、依頼人の別荘があるんだよ」 宮原は言いながら山道を下りていく。 最初からそう言ってくれれば、心配することもなかったろうに。 海斗は苦々しく思った。 木々の間から漏れる日光は明らかに弱まり、気温も涼しく感じるほどだ。 言われたとおり30分ほど歩くと、林の中にログハウスが見えてきた。 丸太を組んだ外観がいかにも素朴だが、周囲の手入れは行き届いており、雑草などはきれいに刈り取られている。 「あとは虫の声でも聞きながら寝るだけだな」 宮原はポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。 海斗が顔を見ると、ニヤリと笑っている。 「何です?」 「今日の君は随分くたびれてるな。顔が真っ黒だ」 あの旅館でだいぶ埃をかぶったらしい。宮原の顔もどことなく煤けてみえた。
/109ページ

最初のコメントを投稿しよう!

251人が本棚に入れています
本棚に追加