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実際に着いてみると、果たして彼はそこにいた。
臨時スタッフらしくTシャツにジーンズ、旅館のロゴ入りエプロンといった姿で玄関に立っている。
建物は古く、見上げると各部屋の外壁を囲うようにベランダ状の高欄がついていた。
増井から言われたとおり宮原は旅館スタッフの須賀海斗に構わず、部屋係の後をついて部屋へ入った。部屋係はこれまた新人だという若い仲居で、名前を枝尾という。彼女はあたふたと建物の説明を済ませて出ていった。
8畳の和室には、真ん中に座卓がポツンと置かれている。
窓の外を眺めたら、寒気のするような断崖絶壁のはるか下に川が見えた。
いつになく携えてきた携帯電話のアンテナは圏外を示している。
それもそのはず、駅からマイクロバスに乗って、ここまで小一時間はかかった。
開け放った窓から、木々の葉ずれの音や緑の匂いがしてくる。
普段家に引きこもって仕事をしているから、こういった自然に満ちた場所への旅行は良いことなのだろう。ただ本当に関東地方なのかもわからないほどの山の中で、いささかの不安も覚えるのだった。
周りの部屋から、同じマイクロバスで着いた客たちの声が聞こえている。
人付き合いが嫌だから作家という職業を選んだというのに、まったく他人と関わらずに生きていくのは不可能なようだ。
「宮原先生」
入口の襖が無遠慮に開けられ、川里の担当編集者が現れた。後ろに増井も控えている。
「いちどお目にかかりたかったんですよ、先生!増井があれこれ噂するもんですから」
増井が親しくしているという男は、大柄で声も大きかった。
短髪で眉が濃く、一見したところ大人になった柔道部員といった風情だ。
受け取った名刺に“楠田行雄”とある。楠田は増井より3年先輩だというから、32歳くらいだろう。
「すみません、楠田さんがどうしても先にご挨拶をって……」
「いや、大丈夫だよ」
増井は日頃、この楠田に宮原のことをどう話しているのだろう。
「ぜひうちの“推理マガジン”にも書いていただけたらなって思うんですけど。千葉探偵シリーズの短編とか、どうでしょう?」
「いやあ、それは……」
あのシリーズはミステリにしては内容が軽めだから、発表する媒体は単行本か一般小説誌ばかりだ。それをガチガチの本格ミステリ雑誌に載せてくれというのはどういう料簡なのか。
「楠田さん、そろそろ行かないと。近重先生にも挨拶するんでしょう」
「そうだな。じゃ宮原先生、ご検討をよろしくお願いしますね」
出版不況といわれる昨今、推理小説雑誌も部数かせぎに苦労しているのかもしれない。
宮原は座卓に書くつもりもないメモ帳を置いて座った。
増井がわざわざ旅館スタッフとして海斗を用意してきたのは、言うまでもなく新作の催促だ。
千葉探偵シリーズの助手・佐賀一彦のモデルとなった須賀海斗を傍に置いておけば、何かいいアイデアが浮かぶのではという苦しい思いつき。
山奥のひなびた宿はいかにもいわくありげで、ミステリの舞台には申し分なかった。
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