7 断崖の殺人

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夕方6時に広間で宴会を始めるというので、臨時アルバイトの海斗も厨房と広間との間を行ったり来たり、忙しく走り回った。 今日は少年漫画雑誌「少年ドカン」の人気漫画家・近重吾郎を囲んで座談会をやるのだと聞いている。 海斗も名前くらいは聞いたことのある漫画家だし、話題の作品もいずれ読んでみたいと思っていた。まさか読む前に作者に会うとは思いもしなかった。 増井が海斗をこの“かつら亭”のアルバイトスタッフに仕立てた思惑はなんとなく理解している。あの人気シリーズが続けば会社も潤う。作品数が揃って再度のドラマ化や映画化となれば更に助かるという寸法だ。 しかし宮原は探偵の助手にモデルがいたことを明かしておらず、海斗のような正体不明の大学生が周りをウロチョロするのは望ましくない。ということもあり、今回は宮原と知り合いだということを隠しておくよう頼まれていた。 「須賀くん、そこ、お膳ひとつ足りないわよ」 女将の大竹の声がとぶ。大竹は年齢50歳代半ばくらいで、オーナーと懇意らしく、いつも全力で“かつら亭”を取り仕切っている。常にきっちり化粧をし、和服の着こなしにも隙がなかった。 「は、はいっ」 海斗は新人の仲居・枝尾久美とともに、広間のセッティングをあたふたと仕上げた。 枝尾は22歳。地元の大学を卒業して就職難の末、この場所に行き着いたと語っていた。和服の着方はまだ慣れないふうで、見習いという札を下げて歩いているかのようだ。 「いいみたいね。じゃあ須賀くんはお風呂、久美ちゃんは厨房ね」 大竹の指図通り、崖側に位置する浴室へ入る。 脱衣所はせいぜい3、4人が立っていられるくらいの空間だ。さらに奥へ進むと洗い場が2つ、正面に浴槽があった。 その向こうにはガラス扉があり、ささやかな露天風呂となっている。 海斗は昨夜から風呂掃除を任され、もう珍しい光景とはいえないのだが、露天風呂から眺める渓谷の景色は独特でつい見に行きたくなってしまう。 ふらふらと外へ出たら、大きな石に囲まれた露天風呂の向こうは空だ。 見下ろすと断崖絶壁。下を流れる川までは結構な距離があり、落ちたらひとたまりもないだろう。 こういうぞっとするような場所にこそ本当の絶景がある。と、この旅館の持ち主は語っているそうだ。
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