7 断崖の殺人

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海斗は広間で座談会が開始された後、ようやく自分の夕食にありついた。 昨日の夕方から2泊の予定で働きに来ているが、食事が美味しいのは救いだった。 女将と枝尾は海斗より後に厨房へ来て、この後の段取りを打ち合わせてから別れた。 今日は男性客ばかりだから、風呂の点検は海斗だけの仕事となる。 座談会の間に風呂の周辺をもう一度きれいにし、あとは会がお開きになるまで厨房の板前と話して過ごした。 板前は他のスタッフと違い、どんなに遅くなる日でも車で自宅へ帰るのだという。彼には家庭があるからで、大竹や枝尾のような住み込みができるのは貴重な存在といえるだろう。 座談会が終わったのは夜10時を回ってからだった。 海斗は会場に散らばった酒瓶やグラスなどを片付け、広間を掃除した。 そして洗い物が終われば、もう今日の仕事はおしまいという話だった。 「須賀くんは明日、6時ね。お風呂掃除とボイラーの点検。久美ちゃんは6時半、いつもの通り」 女将の大竹は明日の手配が済むと、もう風呂に入って寝支度をするらしかった。 若い枝尾も慣れない団体客の応対に疲れており、さっさと寝たいとこぼしている。 海斗はといえば、明日昼頃までには帰れることになっているから、もう寝るというつもりになれなかった。 それにさっき宮原に呼ばれている。 海斗は階段を昇って角の部屋を訪ねた。 ノックの音にすぐ扉が開く。 周囲を確認して部屋へ入ったら、宮原はまた鍵をかけた。 思わず身構えた海斗を見て、笑いをこらえている。 「さっきはごめん。ずいぶん子供っぽいよね、俺」 あのキスのどこが子供っぽいのかわからないが、海斗はホッとして部屋の隅に座った。 座卓の上にメモ帳があり、覗き込んでみたら真っ白だ。 「そんなもの見ないで、もっとこっちへ」 海斗も近づきたいが、今日一日の労働でだいぶ汗をかいている。 「汗臭いんで、お風呂に入りたいんですけど」 「今は駄目だよ、他のみんなが入ってるだろう」 言われてみればそうだ。ここの風呂はちょっとした銭湯くらいの広さしかないから、ピーク時には避けたほうが無難だろう。 「それとも、みんなに見せたいの?」 指摘されて気付いたのは、宮原が別の心配をしていたことだった。 「なわけないでしょう」 男だから男風呂に入るのは当然のことだ。それで宮原以外の人に裸を見られたって、特に恥ずかしいとは思わない。 でも宮原はたぶん、見せたくないと思っている。 「向井さんも楠田くんも、綺麗な男の子がいるね、なんて言ってたよ」 「そ、そうですか」 今日の宮原はいろいろと扱いに困る。 去年も一昨年も、夏休みに二人の旅行で一泊した。 いずれもこういう関係になる前の話で、その時は個人的な話題はあまり出さなかった。 厄介な絡み方をしてくるのは、単に海斗が会いに行かなくて拗ねているのかもしれない。 仕事絡みでは、せっかくの鄙びた旅館の雰囲気も楽しめないという心境だろうか。 「どうも最近、頭が冴えなくて。増井くんの顔を見ても喜べないんだ。顔に原稿って書いてあるみたいでね」 「こんな時くらい、のびのび楽しんでみればいいじゃないですか」 作家は年中お休みのように見えて実は休みが一瞬もない職業だということは知っている。 これまでの流れから、宮原は書けない時、外に出てインスピレーションを得るタイプでないのは確かなようだった。 「そうだね。風呂でも入ってこようかな」 「人にはやめろって言っといて……」 思わず不満を漏らしたら、宮原は少し悲しげな表情で海斗をみつめた。 「じゃあ、誰かいたらやめとく。俺の体を見せていいのは海斗くんだけ、なんだよね?」 「……酔ってるでしょう?」 離れていたから気づくのに遅れた。宮原はさきほどの座談会で酒を飲んだらしかった。 「飲んで長湯したら危ないですよ!じゃ、俺もう行きます。おやすみなさい」 「待ってって……。君、どこで寝てんの?」 「1階の隅ですよ、ここの半分くらいの小さい部屋です」 「ふうん……」 いくら宮原でも、酔っ払いの相手はやっていられない。 海斗は様子をみて風呂に入ろうと、自分の部屋へ戻った。
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