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エピソード17
美桜の母親は、想像していたよりもずっと優しそうな人だった。医者だと聞いていたから硬派な人を想像していたが、目の前に座る女性は柔らかな笑みを浮かべ、時折、涙ぐみながら由香里の話を聞いている。線香をあげに来た、と言った由香里の言葉をそのまま信じたらしい。由香里が語る美桜の話に、彼女は涙を溜めた目で愛おしそうに頷く。穏やかな女性だった。…本当に、彼女が美桜の死因を偽ったのかと疑いたくなるほどに。彼女は美桜の病気の事を知っていたのだろうか。確かめたいが、それには私がその病にかかっている事を気付かれるというリスクが伴う。この病気は誰かに知られたら致命的だ。私は手首のアザが完全に隠れるよう、さりげなく時計の位置をずらす。
美桜の部屋が見たい、そう言った私達を、彼女は快く案内してくれた。
「散らかっているけど…」
通された部屋は、確かに本や衣服が乱雑に積まれていた。美桜らしくない、と思う。
由香里と私は、丁寧に、だけど隈なく手がかりを探した。一瞬、私の胸に不安がよぎる。私が美桜を殺した証拠が残っていないだろうか。だけどすぐにそれを打ち消す。大丈夫だ。あのメモは既に処分した。まさか、遺書を2回も書いてはいないだろう。
窓の外が少し暗くなる。私の胸には焦りが浮かんでいた。目的のものはまだ見つかっていない。日記も、メモもない。嫌われても死なずにすむ方法。それが分からなければ、私は生き延びる事が出来ない。
由香里が動きを止めた。見ると、何かを手に肩を震わせている。アルバムだった。中学の制服を着た美桜が写っている。そしてかつてのクラスメート達。由香里の姿もあった。
ふと思い立って、ベッドの上の緑色のクッションを手に取る。柔らかな綿を押すと、奥に何か硬い感触があった。そっとファスナーを開け、手を差し入れる。
小さなノートのようなものに手が触れた。私はそれを由香里に気付かれないよう、制服のポケットに忍ばせる。
「…帰ろうか」
やがて、目を赤くした由香里が言い、私達はお礼を言って美桜の家を後にした。
「美桜のお母さん、いい人だったね」
由香里は少し寂しそうに笑った。
自転車通学の由香里を見送ってすぐ、私は近くの公園のトイレに駆け込んだ。ポケットから先ほどクッションに隠されていたものを取り出す。手帳だった。表紙には、可愛らしい鳥のキャラクターが描かれている。スケジュールの後に数枚ある余白部分に美桜の文字が乱雑に書き込まれている。
『死にたくない死にたくない死にたくない』
1ページ全てを使って殴り書きされたその文字は、私の胸を締め付けた。美桜もまた、同じように苦しんでいたのだ。そして私は、その事に全く気が付いていなかった。
ページを捲り、はっと息を飲む。そこにはたった一行。
『誰かが自分を好きだという確信が必要』
また次のページ。そこには、震える文字。
『貴兄ちゃんに 好きになってもらいたい』
もしかして…。心臓が激しく脈打つ。これは、この病に打ち勝つ方法ではないのか。
公園を飛び出し、家に向かって小走りで駆け出す。あったのだ、本当に。死なずにすむ方法が。これでこの苦しみから解放される。思い描いていたより、よほど簡単な事だった。誰かが自分を好きだという確信。それがあれば、私は生き延びられる。
舞い上がった心は、しかし直後に地面に叩きつけられる。
足を止め、空を見上げた。
誰が、私を好きだと言ってくれるだろう。恋人の元に入り浸る父親か、連絡のない母親か、私とは別世界に住む妹か。それとも、あの蝶のようなクラスメート達か。
目前に広がるのは、血のような赤だった。
いないのだ。誰も。
醜いトカゲを好きになる人なんて、いるはずがない。
真っ赤な夕陽に照らされ、私は絶望の闇の中に立ちすくむ。
誰かが私を好きだと確信する。それだけの事が、私には、天を掴むより難しい。
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