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エピソード19
馬鹿にされると思った。いや、それ以上に激しく罵られるのだと思っていた。だけど、先生は静かだった。まるで亡霊のような目をして、私の前に立つ。
「何故、君がそれを言う?」
「あ…ご、ごめんなさい…」
私みたいな醜い者が、美桜を殺した人間が、好きになってほしいと願う資格なんてなかったのだ。唇を強く噛み締める。何故、私はここに来てしまったのだろう。
「君が何故…」
先生は、まるで私の声など聞こえていないかのように繰り返す。
「ごめんなさ…」
「何故かと聞いているんだ」
鋭い声に、私はびくっと肩を震わせる。
「…それは」
言い淀む私の前に、先生は一枚の紙を突き付ける。殴り書きのトカゲの絵。
どうして、これが…。この手で確かに燃やしたはずだ。目の前が真っ暗になる。
「コピーを取っていないと思ったのか?ばら撒かれたくなかったら、質問に答えろ」
私は俯き、手を握り締める。晒すのだ。醜く卑しいトカゲの姿を。羞恥で声が震える。
「…先生が好きになってくれれば、私は死なずにすむかもしれないんです。誰かが自分を好きだという確信。それが必要だって、美桜の手帳に書いてあって…」
言いながら私は気付いた。美桜が先生に、病気の事を調べないで欲しいと言った理由に。
もし貴先生がこの事実を知ってしまったら、その後、好きだと言われてもそれを心から信じる事は出来ない。「自分を死なせないために、好きでもないのに好きだと偽っているのではないか」という疑いが生じてしまうが故に。
「…ごめん…なさい」
深く頭を下げた後、先生の姿を見て私は言葉を失う。様子がおかしい。まるで魂が抜けてしまったかのように、貴先生は遠い目をして、そこに立ち竦んでいた。
「先生…?」
ふいに貴先生は窓の外を向く。
「見るな」
肩が震えている。一体、先生はどうしたというのだろう。
沈黙が続く。しばらくの間、私は動けずにいた。
私達を照らすのは、先ほどと同じ、血のように赤い夕焼けだった。
やがて、太陽が沈みきった頃、先生は後ろを向いたままポツリと言った。
「…入学式の後だ。美桜は俺に言ったんだ。さっきの君と全く同じ言葉を」
自分を好きになって欲しい。そう、美桜は告げたのだ。私は驚く。『貴兄ちゃんに 好きになってもらいたい』美桜のあの文字は、秘めた思いだと思っていた。
「…それで、先生は…?」
先生も美桜の事を大切に思っているはずだ。彼は兄妹のようだと言ったが、たぶんきっと、それ以上に。美桜もそれを知っていたからこそ、彼に求めたのだろう。自分を好きだと言ってもらう事を。確信するために。生き延びるために。
「君を好きにはならない。そう答えた」
息を飲む。
「どうして…」
先生は質問には答えなかった。だけど、理由はすぐに分かった。彼は教師だ。教師と生徒が恋愛関係になれば、教師である彼はその職を失う可能性がある。
先生が好きだと言わなかったから、美桜は貴先生の気持ちに気付いていながら確信を持つ事が出来なかった。結果、彼女は命を落とした。
「守るために、教師になったんだ…」
抑えきれなかったのであろう声が、微かに漏れ聞こえた。
好きだったから、守るために、教師という剣を手に取った。だけどその剣を持った手で、彼女が伸ばした手を掴むことは出来なかった。
震える肩から伝わってくるのは、彼の後悔だ。恐ろしいほどの。
彼に声がかけられるはずも無かった。
彼の大切な人を奪った張本人は、私だ。
時折、低く呻くような声が響いた。だけど、先生はそれ以上何も言わなかった。
『貴兄ちゃんに 好きになってもらいたい』
美桜の震える文字が、私の胸を強く締め付けていた。
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