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エピソード2 三日前
ひらひらと舞う、蝶の群れ。
「矢森さん、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
集めたばかりの自習プリントを机の上でトントンと揃えながら、取り囲む女子生徒達に尋ねる。
「矢森さんは、悲しくないの?その…美桜の事」
顔を上げる。蝶達は皆、コピーして貼り付けたような表情で私を見ていた。悲しみと正義感、そして少しの哀れみ。
「…それ」
蝶の一人が言い、彼女達の視線が私の手の中にあるプリントの一枚目に集まる。ほぼ全ての答えが書き込まれているその用紙には、私の名前が書かれている。私以外のクラスメート達のプリントは白紙のはずだ。皆、肩を寄せ合い泣いていたのだから。全ての授業が自習だった今日、シャーペンを走らせていたのは私だけだった。なるほど、と私は思う。美桜の死を悲しむより問題を解いていた私を、彼女達は気に入らないのだろう。
「…悲しいよ」
斜め前の席に飾られた桜の造花を見ながら、私は言う。嘘ではない。私が答えると、彼女達は一様にほっとした表情になる。
「だよね。良かった。矢森さん、平気そうに見えたから、ちょっとびっくりして。ごめんね」
そう言って蝶達の群れは私から離れ、教室の中央へと集まっていく。輪の中心は日辻由香里の席だ。朝から突っ伏したまま泣き続けている。可哀想。親友だったもんね。蝶達の囁きが広がっていく。
悲しいよ。私は心の中で繰り返す。だけど、あなた達ほどじゃない。だって、私はこの世界の日陰者でどうでもいい存在だけど、私にとってはこの世界の全てがその「どうでもいい存在」なんだから。何か一つ欠けたところで泣いたりなんてしない。
「失礼します」
国語準備室のドアを開ける。無人だと思っていたその場所に人がいた事に私は驚く。
「会議中じゃなかったんですか?」
自習プリントを差し出しながら私は尋ねる。今日は朝から職員会議が開かれていたはずだ。そして、つい先ほど職員室の前を通りかかった時も、いつもとは違いピタリと扉が閉められていた。
「待っていたんだ、君を」
「え?あ、プリントですか?」
日直がプリントを集めて持ってくるように、と指示したのは貴先生だ。だけど違和感を感じた。貴先生は新任で、外見だけで言えばそこそこ人気のある教師だ。だけど、それを差し置いてもまともに授業を受ける生徒がほとんどいないくらい、やる気のない教師でもある。彼の話をきちんと聞いていたのは、それこそ美桜くらいだっただろう。そんな彼が、わざわざ自習プリントを受け取るためだけに、重要な会議を抜けてこの部屋に来るだろうか。
先生は、チラリと私の答案に目を走らせてから言った。
「いや、君に聞きたいことがある」
渡されたのは、一枚の小さな紙切れだ。
『ごめんなさい 私を嫌わないで』
そこには見覚えのある丸文字でそう書かれていた。そしてその横には、殴り書きのようなトカゲの絵。
「これに心当たりがあるか?」
「いえ」
私は首を横に振り、メモを先生に返す。
「亡くなった古具間美桜が、昨日、書いたものだ」
「昨日…」
美桜が死んだのは昨日の放課後だ。朝のホームルームでそれを聞かされた時、クラスメート達は皆、驚いた。死の当日、全ての授業が終わり教室を出るまで、美桜はいつも通りだったからだ。いつも通り控えめで、優しく笑顔を絶やさなかった。彼女に持病があった事を聞かされたのも今朝の事だ。美桜の命を奪った病気について、担任教師は何も語らなかった。
「君は彼女とは小学校から一緒だったそうだな。そして小学生時代、君はトカゲと呼ばれていた」
その通りだ。私は頷く。名字が矢森だから、トカゲ。安直で悪意のあるニックネーム。だけど私は気に入っていた。
「では、これは君宛てのメッセージだ。他に該当する生徒はいない」
ゆっくりと先生は立ち上がる。気圧されるように私は一歩、後ずさった。
「何のことか、分かりません」
先生は私が下がった分だけ、前に出る。
「昨日、君は彼女を嫌いだと言ったか?もしくは、嫌われたと思わせる行動を取った?」
ズキン、と頭が痛んだ。私は必死で首を横に振り、また一歩、後ろに下がる。
「じゃあ、古具間美桜と何があった?」
肩が窓ガラスに当たる。ここは三階だ。目の前に先生が立ち塞がる。
「何もありません」
「ないはずはないんだ。…君のせいで美桜は死んだ」
私のせい?この人は何を言っているのだろう。美桜は病気で死んだのだ。言い返そうと口を開いた時、はっと気付く。目の前の教師が凍て付くような瞳で私を見ている事に。私の知っている貴先生ではない。部屋の温度が一気に下がった気がした。
「思い出せ。彼女と何かがあったはずだ」
痛む頭で昨日の出来事を思い返す。登校後、朝のホームルーム、一時間目、休み時間、二時間目…。私は美桜と何か言葉を交わしただろうか。五時間目。やはり思い出せない。先生は何か勘違いをしているのだ。私は美桜に何もしていない。そう思った瞬間、はっと思い出す。
「肩が、ぶつかったんです」
私は必死で声を絞り出す。
「肩?」
鋭い目が私を睨んだ。
「はい。教室を出る時、すれ違った美桜と肩が当たって…。急いでいたので、そのまま通り過ぎました」
そうだ。あれが、美桜を見た最後だった。
「頭が痛くて、早く保健室に行って薬をもらいたかったんです」
言いながら、最近、頭痛が多いなと思う。
「…頭痛?」
貴先生の声に、言い訳のように私は付け加える。
「時々、痛むんです。誰かが騒いでいる時とかに」
確かあの時も、クラスメートの女子達が数人、言い合いをしていた。
先生はチラリと私の左手首の内側を見る。ちょうどそこには指で押したかのようなアザがあった。最近出来たものだ。時計をしてくるのを忘れた事に今になって気付く。
「…美桜と関わったのは、それだけか?」
「はい。それだけです」
先生は机の上に目を向ける。そこには先ほどのメモが置かれていた。
「そうか…それでか」
先生はくくっと笑い、自分の椅子に腰を下ろすと、何かを堪えるように口元を手で覆う。
「…悪かったな。もう帰っていい」
酷く沈んだ声。先ほどとは別人のようだ。
「あの…」
迷ったが口を開く。聞く権利はあるはずだ。いつの間にか頭痛は治まっていた。
「美桜は、病気で死んだんじゃないんですか?」
「….病気だ」
「でも、先生は私のせいって…」
「そうだ」
美桜のメモを手に取り、先生は言った。
「彼女の死の原因は君だ。彼女は君に嫌われたと思い込み、自ら命を絶った」
「…え?」
また、頭痛が始まる。
「嫌われると死ぬ。それが古具間美桜の病だ。…そして、おそらく君も」
まるで授業の時のようなやる気のない口調で、先生は言った。
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