エピソード6

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エピソード6

「それでは、卓球」  予想外に希望者がいるのを見て、私は挙げかけた手を慌てて下ろす。 「予定人数より多いので、じゃんけんで決めましょう」  ほっと胸を撫で下ろす。誰かと争う事は避けたい。 「バレーボール」  花型種目だ。参加出来るわけがない。 「ええと、次は…」  黒板に並べられた競技の中で、花丸の付いていない種目がだんだんと減っていく。 「次…」  挙げようとした手が動かない事に気付く。恐怖が全身を支配する。争ってはいけない。目立ってはいけない。失敗してはいけない。それらは全て死への引き金となる。  太腿の裏がじっとりと汗ばんでいる。手が震える。  何故、こんな事になったのか。どうして私がこんなにも苦しまなくてはいけないのか。  視界が涙で滲む。  以前の私だったら、一番楽な種目に真っ先に手を挙げただろう。体育祭自体を欠席したかもしれない。参加したとしても、全力で走る生徒を馬鹿にした目で眺めていただろう。  もし、今の私がそんな事をしたら…。頭の中で、クラスのみんなが手に爆弾を持って笑っている。 『ねえ、火を付けてあげようか』 『簡単だよ。嫌われればいいんだから』 『矢森さん、得意でしょ?』 『こっちにおいでよ』 『さあ早く』 『早く』  クスクスと笑い声が広がっていく。 『早く、こっちにおいでよ』  俯いていた一人の生徒が、顔を上げる。美桜の顔だった。その顔はべっとりと血に染まっている。 『早く来て。一人は寂しいの』  美桜は私に腕を伸ばす。その腕には、手首から先がない。 『あなたが、私を殺したから』  血だらけの顔がにたっと笑う。 「いやああああああっ」  立ち上がる。ガタンと音を立てて椅子が転がった。  はっとして周囲を見回す。 「…ひっ」  クラスメート達の怪訝な目が私に突き刺さっていた。 「矢森さん、どうしたの?」  委員長の驚いた声。 「あ…の…」  頭が真っ白になる。何か言わなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。 「あ…えっと…あ、む、虫が手にとまって…」  やっとの事で声を絞り出す。委員長が呆れ顔で笑った。 「なんだ。ゾンビでも見たような顔をしてたわよ」  クラスのあちこちで笑い声が漏れた。 「あ…ごめんなさい!」  スカートの裾をぎゅっと握り締める。クラスメート達の顔が見れない。どうか、誰にも嫌われていませんように。 「じゃあ、矢森さん、お願い出来るわね」 「え?」  黒板を見て息を飲む。決定の証の花丸が付いていない種目は、一つだけだった。 『クラス対抗リレー(アンカー)」 「な、なんで、私…」 「まだ決まっていないのは、矢森さんだけなのよね」  委員長が申し訳なさそうな顔で言う。  頭の中が真っ白になる。他に立候補者はいないのだろうか。クラスメート達を見渡すと、皆、一斉に目を伏せていた。体育祭に情熱を燃やす生徒はこのクラスにはいないらしい。 「やってくれる?」  だめだ。引き受けるな。心が警報を鳴らす。もともと運動は苦手なのだ。散々な結果になる事は目に見えている。  だけど、もしここで私が断ったら…。  俯くクラスメート達の横顔に見えるのは、安堵と、期待と、少しの不安。もし今、私ではなく彼らの誰かがアンカーに選ばれたとしたら。下を向き、奥歯をぎりっと噛み締める。そうしたら、私は今すぐにでも命を落とすかもしれない。 「…はい。分かりました」  頭の中の爆弾に、無数の火が灯される。  その時だ。 「委員長」  ふいに誰かの手が挙がる 「矢森さんは、辞めておいた方がいいんじゃないかな?」 「え…」  ドキリとする。実力もないのにアンカーを引き受けたから、既に嫌われたのだろうか。 「宇佐木くん、どうしてそう思うの?」  委員長が尋ねる。  声の主は、バスケ部の宇佐木拓磨だったようだ。彼は私を見て、にっと笑う。 「最近、具合良くないんだろ?よく保健室に行ってる」 「え?」  確かに、ここの所、頭痛薬をもらうために保健室に行くことが多い。でも、どうして彼がその事を知っているのだろう。 「俺も、よく部活の怪我で保健室に行くから。そこでたまに矢森さんを見かけるんだ」  知らなかった。いや、興味がなかっただけか。額から汗が流れる。しかし今後は気を付けなければ。頭痛薬を持ち歩く事にしよう。  この病気の事は決して人に知られてはならないのだ。美桜もそうしていた。 「矢森さん、そうなの?」 「…はい」  委員長の声に、私はこくりと頷く。 「じゃあ仕方ないわね…。ええと、誰か、変わってくれる人?」  手を挙げた人物を見て私は息を飲む。委員長が慌てたように言った。 「日辻さん?本当にいいの?」  日辻由香里。彼女が何故?頭の中で疑問が渦巻く。彼女が運動が得意だったという記憶はない。 「あの…私、足遅いけど頑張って走るから…みんな、いいかな?…美桜が好きだったこのクラスのために、私、何か出来たらって思っていて…」  懸命に話す由香里に、委員長は微笑む。 「日辻さんはこう言ってるけど、みんな、どうかな?」  クラス中から拍手が沸き起こる。かつての蝶達が潤んだ瞳で由香里を見ていた。 「ありがとう」  由香里は深く頭を下げる。  助かった…のだろうか。  流れる汗を拭きながら、私は席についた。 「あの、ありがとう」  休み時間。私の言葉に由香里はふふっと笑う。緩く巻かれた髪が肩口で揺れた。私とは違う種類の人間。 「いいの。さっきみんなに言った事は本当だけど、それよりも、私、矢森さんと友達になりたかったの」 「…は?」  何故、私と。思いもよらない言葉に私はたじろく。 「最近の矢森さんを見ていると、なんだか美桜に似ているような気がして。不思議。少し前までは全然違うと思ってたんだけど」  当然だ。この病にかかったら、控えめな性格にならざるを得ない。 「友達になってくれる?」  頷く以外に、私に選択肢は無い。 「ありがとう」  由香里は私の手を取って微笑む。触れそうなほど顔を近付け、囁く。 「じゃあ、一緒に探してくれない?美桜を殺した犯人を」
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