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005 独白
質問の意味は、目の前で起こった意味の分からない現象によってはっきりした。目の前の女性が、小学校低学年くらいの幼女になったのだ。何の迷いもない、まさに低学年だった。
何が起きているのか、こればっかりは先輩でも理解不能らしく、隣で「嘘でしょ」とつぶやいていた。
僕も同意見だった。
「……幼児退行?」
僕と先輩は顔を見合わせた。見合わせたところで、何の解決にもならないことは、火を見るよりも明らかだった。
戸惑いを隠せないでいる僕達を見て、目の前の女性(幼女)もまた、不安のあまり泣き出してしまった。さすがに公共の場で泣き出した幼女の前に2人の高校生という構図はまずい。
ひとまず僕らは、僕の家に向かった。
だっこされた幼女は、走っている頃には大人しくなり、反対にこの状況が面白いのか、キャッキャッと笑顔をこぼしていた。
その表情に、僕らは安堵する。
家にはまどかもうてなもおらず、兄貴は部屋に籠っているようだった。リビングに幼女を連れて行き、僕はお茶を用意して、心を落ち着かせた。
何が起きている。何だ、これは。
「ねえ、十哉」
「何ですか、先輩」
先輩は、暴れる幼女を抱っこしながら、ふくれっ面でこちらを見つめる。
「私に子守りを任せるつもり?」
「いや、でもお似合いですし」
「お似合いとかじゃない。考えるのは私がやるから、こっちの面倒見て」
仕方がないので、交代した。もちろん、家にはおもちゃがい一つとしてないため、お菓子をあげるとか、手遊びくらいしかできないのだが。
しかし、この幼女は楽しんでくれたみたいで、常に笑ってくれていた。
「……まさか、そういうこと」
ソファに座って熟考していた先輩は、そう呟いた。
「何かわかったんですか?」
すると、先輩は突然立ち上がり、「うてなさんと連絡とれるかしら」と僕に尋ねてきた。こうなった先輩は、もう止められない。今回の謎解きは先輩に託そう。
「ええ、まあ。あっちが電源切ってなかったらですけど」
「だったら、『19時に駅前のカフェで待ってる』と伝えておいて」
なんだか、今日は大人っぽい。なびく黒髪が、綺麗に元の位置に戻る。見蕩れていると、先輩はポケットに手を突っ込みながら振り返り、「君、今日はヒーローになれるぞ」と嬉しそうに宣言した。
実感のないセリフに、僕は苦笑いするほかなかった。
「じゃあね」
そして、先輩は部屋を去っていった。
「はぁ、でもこの子がまだ」
寝かせていた幼女を見ると、そこには先ほどの女性が戻っていた。
「……あれ?」
完全に膝枕の構図で、僕は幼女をあやすために背中をさすっていたが、戻られてしまってはただのセクハラだった。
「どうしようどうしよう」
心は慌てているが、何はともあれ体が動かせない。
そわそわしていると、女性は起き上がってきた。そして、ポケットに入っていたメモ帳を取り出す。
『おはようございます』
「……おはようございます」
女性も気づいたらしく、両者に気まずい空気だけが流れた。
『また、幼児退行してしまったのですね』
文字だけで、彼女が抱く感情が伝わった。
「あの、そう言えばなんですけど、名前訊いてもいいですか?」
彼女は、驚いた表情で両手を合わせた。
『すっかり忘れていました。名前は、虎野初音と言います』
メモ帳をお借りして、僕も名前を書く。すると、女性―もとい、虎野さんはふふっと笑って、『いい名前ですね』と書いてくれた。
それから、僕も自分用のノートを用意して、たわいもない話をした。実は同級生だということから、テストとか他クラスの恋バナとかで盛り上がった。まさか、初対面の女性とそんなことで盛り上がることがあるのかと思ったけれど、意外にも彼女はフランクな人で、すぐに距離が縮まった。
『話したいことがあります』
それは、久々にまどかさんから泊ってくると連絡を受けたすぐのことで、時刻は22時を過ぎたころだった。
『何でしょうか』
覚悟を決めて、僕は返す。
すると、彼女はあらかじめ用意していた3ページくらいの便せんを僕にくれた。
その内容は、今回の点と点を結びつけるそれだった。
そして、それを瞬時に見抜いたうてなと先輩に、また恐怖を感じた瞬間だった。
『これから書かれることは、私に本当に起こった現象です。
私は、昔歌手をやっていました。歌手と言っても本格的なものではなく、いわばアイドル歌手でした。いつも笑って、ステージに立つ。学校にも行けず、友達も少なかったです。
それでも、なんとか勉強面だけでも追いつこうとしました。そんなとき、助けてくれたのが、当時同じクラスだった男の子でした。いつも学校からの宿題を届けてくれるだけでなく、そこにアドバイスを書いてくれていたのでした。名前を教えてくれなかった彼を何度も探し、そして、冬の日、ようやく会えたのです。しかし、その時どんな会話をしたのか、全く覚えていません。
翌日。私は、たまたま仕事が無かったので、学校に登校しようと、制服に着替えた瞬間、幼児退行が起きたのです。幼児退行の時の記憶は、ほとんど残っていませんが、戻ってきたときに、思い出すのです。それが、幾度となく続きました。ランダムで起こるその事象は、私に止められるはずもなく、しばらく引きこもりとなりました。
こんな体じゃ、外に出られない。
もしも、外で晒してしまえば。
そんなことを考えるだけで、憂鬱になっていきました。
それが原因なのかは定かではありませんが、籠り続けて3日目に、聴力を失いました。
そして、私はアイドルをやめました』
書いてある内容をじっくりと読み、僕は様々なことを考えた。もしも、この彼があの彼だとしたら。
冬が嫌いだと言ったのは、このせいだろうか。
適当な勘が当たるわけがない。
そんな感じで、考えていた。
『最近は、外に出歩くようにして、リハビリをしているんです』
照れながら書く彼女を、僕は抱きしめたくなった。
こんなにも頑張っていたのか。自分が少し恥ずかしくなる。
僕だったら、こんな状況になってまで努力しようとは思わない。自殺はしないだろうけれど、外にはもう一生出ないだろう。
凄いですね。偉いですね。格好いいですね。
書いては消し、書いては消して、ようやく僕は一言を見つける。
『お疲れ様です』
正しいのかは分からないが、僕にはそうしか書けなかった。
『ありがとう』
その一言に、優しさが包み込まれていた。
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