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1. わたしを月に連れて行って
あたしの名は伊達菜央、身長172センチ、体重はシークレット。プロレスの世界に身を投じて5年、やっと中堅と言ったところ。所属はWWWX(ワールド・ウイメンズ・レスリング・エクストリームの略)、ストロングさとラジカルさが売りの団体。
チャンピオンベルトを腰にしたトップレスラーなんかは雲の上の存在。うちらみたいな中堅以下は、地方に拠点を置く半プロ半アマのリングにも顔を出し、日銭を稼いでいる。時には神社の境内で、時には小雨降るスーパーの駐車場にリングを組み、試合をする。試合中は何もかも忘れていられる。
試合の合間に、ガチャピンやフナッシーの着ぐるみでショーをさせられた事がある。やってる時は楽しかったけれど、プロレスの試合より多くの歓声や拍手をもらった時、胸に寂しい風が吹き抜けた。
試合が終わって、リングを解体した後、何も無い会場を見て涙がにじんだり。だって、女の子だもん。
そんな時は、道場でスクワットをして汗を流す。いつの日か、腰にベルトを巻く自分の姿を胸に抱いて、ダンベルやバーベルと格闘する。
その日、道場に異形の客が現れた。
黒いシルクハットに黒いマント、片眼鏡と黒ヒゲ、ステッキを手に死神博士みたいな痩身の男。
しばらく壁際に立ち、あたしらの練習を見ていた。
男の視線に、つい女は緊張してしまう。
道場主の力道山ミツが姿を現すと、男は豹変した。シルクハットをとり、片膝をついて、右手をとり、甲に口づけをした。見かけのまま古風な挨拶をした。
「菜央ちゃん、お呼びよ」
先輩レスラーの藤波辰美が言う。
あたしはてっぽう柱に向かっている時だった。道場主、力道山ミツは女相撲の関脇まで行った。その名残で、道場には相撲的な物が多くある。
柱を一発たたいて、あたしは事務所に行った。
「こちらはミスター江楠、プロモーターさん。伊達菜央を、あんたを欲しいそうよ」
力道山ミツが笑顔で言う。また、どこかの団体へ出張になる予感。
ミスター江楠は片眼鏡を光らせ、名刺を出した。『M.S.X.』と団体名が書いてある。
「ムーン・スポーツエンタテインメント・エクストリームで働いております。プローモーター兼切符切り兼・・・雑用係です」
見た目に反して、ミスター江楠は腰の低い言葉遣い。
「で、どこで試合ですか? 利尻島とか、八丈島とか、沖永良部島とか?」
あたしは少し斜に構えて言う。せめて屋根のある所で試合がしたかった。
ミスター江楠が笑った。
「名刺にもある通り、わたしは月でのスポーツ興行をしております」
「つき?」
ミスター江楠は人差し指を上に向けた。
「お空の月ですよ」
「月!」
あたしは天井を見上げてしまった。石膏の吸音ボードを敷き詰めた天井、その角に小さな蜘蛛の巣を見つけた。
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