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「つか、遅ぇんだよ。アンタ、今日中に日本発つんじゃねぇの?」
俺の住んでいた部屋は親の持ち物なので、引っ越しでそこまでばたつくことはない。必要最低限の物だけまとめた荷物を、後で手配した配送業者に送って貰うだけだ。
この後のこと――売るか、貸すかなど――はまた親が決めることになっている。
「飛行機の時間だって、もう決まってんだろ?」
「それはそう、だけど……何で、君が知って……」
「アンタの噂なんて、どこからでも入ってくるから」
「そう、なんだ……」
言葉を交わすほど、泣きそうになる。
それを堪えて、俺は笑みを貼り付ける。
「――あぁ、でも、大丈夫。まだ時間はあるんだ」
だから、お茶の一杯くらい――。
誘ったところで、断られるだろうと思っていた。
けれども、静は一瞬迷いを見せたものの、大人しく部屋へと上がってくれた。
* *
「あ、もうそこでいいよ。ありがとう」
相変わらず、静は何も言わずに俺の抱えていた荷物の一部を持ってくれた。
それを適当に床に置くよう促して、俺はいつも一緒に飲んでいたホットコーヒーを二つ用意する。
ただし、俺がそれをリビングへと運ぶ前に、静はキッチンカウンターの前でカップを手に取って――。
(……座るつもりもないのか)
ちくり、と走った胸の痛みに目を瞑り、俺もそれに合わせてカップに手を伸ばす。
カウンターを挟んで立ったまま、互いにそれを一口飲んだ。
たった1メートルほどの距離が随分遠く感じる。まるでそれ以上近づいて欲しくないと言われているようで、いっそう胸が苦しくなる。
「……あのさ」
「ん?」
「最後に、ひとつだけ言っておきたいことがあって」
(最後……)
静は手の中のカップをそのままに、不意に窓の方へと足を向けた。
かと思うと、手慣れた所作で鍵を開け、躊躇うことなくバルコニーへと踏み出して、
「……ほんと、近いとこに住んでたよな」
手すりに身体を凭れかけさせ、何かを確かめるみたいに眼下を覗き込んだ。
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