3.君が傍にいるということ

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 *  *  俺は助手席に置かれた黒い傘を横目に見詰めた。ドア側に立てかけられたその下には、小さな水たまりができていた。  青信号になり、前方に視線を戻した俺の耳に、微かに溜息の音が聞こえてくる。  親が俺に宛がったのは、真っ黒なハイブリッドカーだった。その控えめな走行音の中、後方から聞こえた溜息(それ)は、けれども、次には何も無かったみたいに掻き消えた。 「見城さん」  まるでそれを誤魔化すみたいに、静が口を開いたからだ。 「え?」  気のせいではない溜息の(その)意味が気になりつつも、俺は笑みとともに問い返す。  ――そして、 「うち、過ぎましたけど」  思いがけないその言葉に、俺は危うく急ブレーキを踏みそうになった。 (……なんてことだ)  静の言うとおり、俺は一切スピードを緩めることなく、彼のアパートの傍を通り過ぎていた。 「ごめん。ちょっと考え事をしていて」 「そんなに忙しいんですか? 研究室の方」 「ああ、うん。ちょうど楽しいところでもあってね」  俺は努めて平静を装い、静の思い込みに便乗する。  だって君の溜息が原因だなんて言えるはずがない。 「デザイン工学……でしたっけ」 「そう。今は主に色彩学をメインにしてて。楽しいよ。これからの仕事にも活かせそうだしね」  まるで最初からその予定たったみたいに、さらさらと口から出てくる言葉たち。  何てことはない普通の会話。ミラーで一瞥してみても、静もすっかりいつもの表情に戻っていた。今はもう、窓の外ばかりではなく、時折俺の方も見てくれる。    さっきの溜息は何だったのかな。  単に静も疲れているのかな……?  思うものの、まだ少しだけ気持ちが揺れている。  さしかかった分離帯の切れ目でUターンをして、再び静のアパートへと車を走らせながら、そんな自分に苦笑する。  するとそこに、更に思いがけない言葉が――。 「そう言えば……実家から送られてきたワインがあるんですけど」 「……え?」 「だから、ワインが」 「あ、ああ、そうなんだ」  俺は何気なく相槌を打った。  なのに、 「はい。……で、良かったら……一緒に、どうかなって」 「……俺と?」 「あれです。まぁ、いつも何かとお世話になっているので……」  次には「送迎とか……ほら、今、みたいな……」なんて、言い訳のように付け加えられ、俺は小さく瞬いた。
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