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そこまでぼんやりしていたつもりもないのに、どうして気づかなかったんだろう。俺と同じように外階段を昇ってきたんだろうに、その気配も、足音も一切耳には入ってこなかった。
「さすがにそろそろ空だろうからって……どうぞ」
静は俺のすぐ傍で足を止めると、持っていた缶を差し出してきた。
「ああ……ありがとう」
俺は何とか平静を装い、持っていた煙草を口に戻す。新たな缶を受け取ると、次には当然のように空になっていた方の缶を抜き取られた。
何も言わなくても、両手が塞がらないようにしてくれたらしい。
「明日花に頼まれたって?」
「ああ、はい。俺が部室に行くって言ったら、じゃあって」
「そっか」
それは、俺に用があったから……?
そんな希望的観測を飲み込んで、俺は僅かに顔を背け、紫煙を細く吐き出した。
「俺は……煙草を取りに」
その視界の端で、応えるみたいに静が背後の部室を見遣る。それから彼は、空き缶を持ったまま、一旦部屋の中へと姿を消した。
(煙草……。……なんだ)
そりゃそうだよね。
気が抜けたような吐息が漏れる。なのにまだどこか鼓動は早い。
そんな自分に苦笑しながら、俺は手の中の冷えた缶に目を落とす。それは先ほどと同じ、ビールテイストのノンアルコール飲料だった。
「――誕生日以来だね」
こうしてゆっくり話すのは。
引き上げたプルタブを戻し、俺は少しだけ後ろを振り返る。開けたばかりの煙草の箱を揺すりながら出てきた静は、「そう、ですね」と手元に視線を置いたまま、小さく頷いた。
誕生日からおよそ一ヶ月。その間、俺が静とまともに顔を合わせたのは、サークル活動の時と、あとは偶然、カフェで一緒になったほんの数分くらいのものだった。
学校への送迎も、なかなかタイミングが合わず声をかける機会もない。
お互い忙しくしていたから、仕方ないのは分かっているのだ。
相変わらず研究室に入り浸っていた俺は、これからとりかかる翻訳についての勉強も始めていたし(少しでも親を説得するための材料にしたくて)、静は静で、暇さえあればバイトに励んでいたから、たまに窺いを立ててみても、なかなか予定が合う日もなかった。
「起きたらいないからさ、びっくりしたよ」
だからこうして、あの日のことを改めて話すのは今夜が初めてだった。
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